■中学時代にいじめを受けて……救いとなったラジオ
漫画との出会いは少なからず人生を変える。私もそうだった。特にギャグ漫画はまだ子どもであった我々に「知らない笑い」「新しい笑い」を与えてくれる最初の機会だった。私は小学4年生の時に読んだ『3年奇面組』が衝撃的で、また年代的には後追いではあったが『マカロニほうれん荘』もそうだった。『べーしっ君』も授業中に読んで笑いを堪えたものだ。私の下の世代、それこそ田村Rの世代は『ドラゴンクエスト4コママンガ劇場』を挙げる人も多い。
とはいえ子どもたちの成長は早く、すぐに笑えなくなって、新しいギャグ漫画へと移る。その繰り返しが自身のセンスを形成していく。余談ではあるが、ギャグ漫画は世代差が顕著で、上の学年の人とは被らないことも多い。
「小学校は6年間皆勤賞でした。勉強しなくてもテストで高得点が取れました。いつからか『有名人になりたい』という思いも芽生え、雑誌の広告を見て芸能事務所のオーディションも受けました。小学生の頃はイケイケな子だったと思います」
私が知っている元気な方の田村Rだ。
順風満帆に思えたが、中学に進学して状況が一変する。
「中学ではクラスメイトから連日のように嫌がらせを受けるようになりました。こちらは何もしていないのに標的にされていました。直接的なイジメや嫌がらせが多くて、殴られたり蹴られたり、時には首を絞められたりしました。担任の先生に相談しても何も変わらず、学校に行くのが辛くなり、勉強どころではなくなってしまい成績もどんどん下降していきました」
小学生から中学生になると、自分の状況が変化したことを思い出す。目立たなかった人が目立つようになったり、強かった人が弱くなったり、リーダー的な存在だった人がそうではなくなったり、それらの逆もある。中学では様々なことがリセットされ、突然の地殻変動のように立ち位置が変わる。
ただ、その立ち位置が変わることと誰かが暴力の標的にされることは別の話だ。
私の場合はどこにも属しないという特殊な居場所を保っていたが、それも今考えるとギリギリだったと思う。周りに気を配る余裕はなかった。自分の言葉や行動が時として相手の人生を変えてしまう。そんなこともわからず私たちは実に小さなコミュニティにいたのだ。
「高校に進んでも人間関係に苦しみ、成績も改善されず、といった日々でした。教室内がいくつかのグループに分かれていて、そのどこにも入らずに孤立していました。孤立なら孤立で良いのですが、わざと聞こえるように『あいつ気持ち悪い』とか『あいつ馬鹿だな』などと言われて、友達がいないのは別に良いし、こっちからは何もしないんだからほっといてくれよ、という心境でした。誰ともしゃべらなくなり、辛い思い出ばかりが残りました。今でも『もしも別のクラスだったらどうなっていただろう』と考えます」
私も昔のことをよく考える方だからよくわかる。「あの時ああしてたら」「あそこでこう言ってたら」「あんなこと言わなかったら」など絶えず考えている。気づくと架空の自分の行動に興奮している時すらある。
こういうことを言うと「過去に囚われすぎだよ」だとか「無駄な時間」などと言われるが、こういう思案はネタ投稿を含めた創作に役立つことを知っているので無視している。
とはいえ、それは私が大人になったから言えることであり、当事者にはそんな余裕もないだろう。
田村Rの拠り所はラジオになる。
「辛い日々の中で出会ったのがラジオでした。当時夢中だった『新世紀エヴァンゲリオン』を語っている番組があって、調べるとニッポン放送の井手功二(現・井手コウジ)さんの『ゲルゲットショッキングセンター』でした。当時はまだ長野に住んでいましたが、夜は遠距離の番組が受信しやすくて、夜になればラジオを聴いて日常の苦しさから救われる感じでした」
ということは、初採用はその頃聴いたラジオ番組だったのか?
「田村Rとして初採用されたのはラジオではなく雑誌でした。『月刊少年ギャグ王』です。自分の投稿が採用されるなんて別世界の話と思っていたので、うれしくてそのページを何度も読み返しました。初採用を機に『月刊少年ギャグ王』にハガキを送り続け、何度か採用されました。ただし最後に載っているポイントランキングには食い込むことはできず、そのまま1999年の春に『ギャグ王』は休刊となりました。
入れ替わるようにニッポン放送の改編で『allnightnippon SUPER!』が夜10時から始まりました。それまで深夜1時からだったオールナイトニッポンを聴きやすくなったんです。特に西川貴教さんの火曜日が好きで、ずっと笑って聴いていました。ある時水曜日担当の『ゆず』との対決企画があったんです。火曜、水曜と連日両組が出演してお互いのコーナーで戦う、というものでした。そこで西川さんチームの一員として読まれたのが、ラジオでの初採用です。お互いの番組の常連が集う中でまさか選んでもらえるとはと信じられない思いでした。
その後も西川さんの番組に送っていたものの、数ヶ月に一度ぐらいしか読まれませんでした。その頃は週刊少年ジャンプ、週刊少年マガジンといった少年誌やファミ通なんかにも送り始めました。こちらも時々採用されてはいたものの、どこも常連と呼べるまでには至らずでした。その中で出会ったのが競馬雑誌『サラブレ』です」


