■多くのハガキ職人を生み出した「競馬雑誌」

 田村Rには競馬好きという一面もある。田村Rは競馬雑誌を読むようになり、そちらでも別の投稿の世界を知る。

「競馬はゲームの『ダービースタリオン』をきっかけに好きになりました。テレビでレースを観て感動。深夜に放送されていた『中央競馬ダイジェスト』が楽しみでした。当時はネットがそこまで普及していなくて競馬雑誌を情報源にしていました。その中で買い始めたのが『サラブレ』です。その中に『ますざぶ』という投稿ページがあって、1999年から送ってはいたのですが、採用される気配がまったくなかったです」

 『ますざぶ』は当時投稿をしていた人なら一度は耳にしたことがあるだろう。私は直接関わりがあったわけではないが、周りの投稿者と話すと必ず出てくるのが『ますざぶ』であった。カルト的と言っても良いほど濃いページの印象がある。

 ネタも投稿者も濃かった。変わった人はだいたい『ますざぶ』の人と言ってもわりと過言ではない。田村Rもまた『ますざぶ』に挑戦するのだがその道のりは平たんではなかった。それについては一旦置いておき、時系列を追っていこう。

「2000年になり、親にねだってFAXを買ってもらったんです。今でいう『メールテーマ』のような生放送中の募集に対応できるようになりました。手軽に送れて採用不採用がすぐわかるというのが自分に合っていたのか、ラジオ番組で読まれる機会が増えました」

 今回もFAXが登場した。今はほぼないだろうが当時はFAXによる投稿があった。FAXがあるとないとでは参加できるコーナーに差が出てしまう時代があった。

「ある日、MBSラジオの『オレたちやってま〜す』という番組に出会いました。曜日ごとに様々な出演者が登場していた中、極楽とんぼや城島茂さんらが出演していた月曜日に送り始めました。よほど相性が良かったのか毎週のように採用されて、毎月の採用数を争う『月間賞』を何度も獲得できました。初めて常連という感覚を得られ、加藤浩次さんが『田村Rは凄いね』といった言葉をかけてくれたことで自信もつきました。それから別番組に送ったときも加藤さんは『おお、田村Rじゃん』と反応してくれて。光栄でした」

 FAXに続いてはパソコンの購入である。当時の時代の変化が蘇ってくる。

「その後パソコンを購入しました。インターネットに出会って世界が広がりましたね。ハガキ職人の名前でたくさん検索をして知っているペンネームを発見するたびに感動していました。やがてチャットに出入りするようになりました。特に『ますざぶ』の方々とは毎日のように深夜まで話して。当時の『ますざぶ』では毎月1通載るかどうかというレベルでした。
 一方、西川貴教さんの番組にも投稿を続けていました。毎年4~6月期の投稿ポイントレースでトップ10に入るとスタジオ見学に行けるという特典があって、それを目標に頑張っていました。しかし初採用から3年経っても採用数は伸びていませんでした。その年は特別企画などでコーナーの休止が多かったため『レースを1ヶ月、延長します』と発表があって、これはチャンスだと思い投稿しまくりました。その結果ギリギリトップ10に入ることができて、念願のスタジオ見学の権利を獲得しました。当時はお台場にあったニッポン放送で生放送を見学し、そのあとは放送作家の石川昭人さんにお寿司を奢ってもらいながらお話を伺い、貴重な体験をさせていただきました」

 西川貴教氏のラジオ番組での念願を叶え、田村Rは『ますざぶ』に照準を合わせる。

「『ますざぶ』でもっと上位にという思いが強まりましたが2002年後期は、優勝争いには絡めず9位止まり。自己最高ではありましたが落胆しました。ちょうど年齢的に将来のことも考える時期でもあったので投稿自体を辞めようかと考えていました。ところが2003年前期は初回から歴代最高ポイントでトップに立つことができました。モチベーションもなく投稿量も減らしたのに不思議でしたが、力みが消えたことがプラスになったのだと考えました。こうなると『どうせなら行けるところまで行きたい』と送り続けて1位をキープしていました。
 このまま優勝できるのではと思った時、他の人に並ばれてしまったんです。『ここで負けたら一生負けっぱなしだ』と自分に言い聞かせて無我夢中でハガキを書きました。すると次号、単独1位に。そのまま逃げ切り、優勝を果たすことができました」

 田村Rの念願であるますざぶ優勝である。長い長い戦いであった。そこには強い田村Rがいた。その勢いのまま『バカサイ』でも優勝し、私と出会う。

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