■「2人の田村R」を繋いだもの

 ストイックにネタを書き続けているイメージの強い田村Rだが、どのようにネタを書いていたのだろうか? 投稿する時になにか決め事などはあったのだろうか?

「投稿先にもよりますが『毎週、あるいは毎月これぐらいは送る』といったノルマは作っていました。ラジオなら『1番組に毎週10通送る』、雑誌なら『1コーナー10ネタ送る』みたいに設定していました。ネットに出会ってからは各所の常連が自分の投稿数などを掲示板やブログに書いていたので、それを参考にもしていました。
 ラジオにハガキで送っている時は『放送終了後に一気に書く』という感じでしたね。地方在住だったので早く送らないと間に合うか不安だったのと、放送を聴いたあとはいちばん熱量があるので、冷めないうちに書きました。ハガキのころは行きつけのポストの集配時間を記憶して、何日前、何時回収なら間に合うか、というタイミングを掴んでいました」

 田村Rの話を聞いているうちに、自分のことも思い出した。私も自分で締め切りやノルマを設定していた。その頃のことを『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』(双葉社刊)で書いていたので引用させてもらおう。

 

 もう一つ忘れてはいけない過程があり、それは番組の選別作業前に行われるもっと大きな選別、放送局全体での選別だ。放送局に届くハガキは何も私が投稿している番組のものだけではない。朝の番組のものも昼の番組のものも夜のものも、番組の数だけハガキは届く。ネタのハガキだけではなくリクエストハガキもプレゼント応募のハガキも、時には苦情や要望が書かれたハガキもあるだろう。それらを番組ごとに大きく選別される作業が存在するはずだから、それを考えるとハガキは金曜ではなく木曜日に到着している方が良い。ラジオ局は同じ都内であるから1日で到着する。よって私が投函する締め切りは水曜日となる。すべては自分の想像から導き出したものではあるが、私はカレンダーの水曜日をすべて赤い丸で囲んで気を引き締めた。自主的に締め切りを設定するなど、生まれて初めてだ。しかもこの締め切り、ハガキを出すことは仕事でも強制でもないのだから、守られようが破られようが誰も困らない。それなのにハガキを読まれたいというストイックな一心から破る気などさらさらない。さらに最初のコーナーにはネタを5つ、次のコーナーは8つなどと、送るネタの数のノルマまでも設定した。あとは計画通りにしっかりと進めればネタの優劣以外の原因での総ボツは避けられる。
 こうして一週間の大まかなスケジュールが誕生した。まさに投稿ありきの一週間である。配達経路の短縮と締め切りのダブル対策を行い、私はどこよりも郵便局とポストへ行くことが多くなり、やがて採用数は安定していき、ついには毎週複数枚読まれるようになる。ハガキを初めて読まれてから数か月、ついに常連の仲間入りを果たしたのである。東京に私の「居場所」ができたのだ。

 

「とにかく自分がリスナーとして聴きたいネタを書きたい、活字で読みたいネタを書きたいという意識がありました。採用やポイントにこだわって自分らしくないネタを書くぐらいなら、自分を貫いたうえで好きなものを送る。根底には採用数より『おもしろくなりたい』があったのかもしれません。
 また、ラジオを聴き始めたころは中高生で、年上の常連たちに比べて、どうしても有名人の知識や人生経験では劣っていました。それなら言い回し、年上たちにはない発想で勝負しよう、みたいに考えたことが下地になっているんだと思います。ちなみにラジオで知らない有名人がネタにされているのを聴いたら、母にその人について訊いていました。
 またラジオではパーソナリティが読みやすさを心がけて書いていました。普通は読み間違えないであろう漢字にもフリガナを書くなどしてました。たとえば『道を通って』を『かよって』と読むことなんてまずないけど、念のため『道を通(とお)って』と書く。『○○の方』ではなく『○○のほう』と書くなどしていました」

 私も似たようなことを考えていた。再び引用である。

 

 様々なことがわかっていくにつれ、私のハガキの書き方も変わっていった。投稿したての頃は書き殴っているという表現が適当な文字であったが、いつしか読みやすさに気を遣うようになり、できるだけ丁寧に書くことを心がけた。文字というのは人それぞれで、綺麗でも汚くてもそれはすべて個性であり、個性のある字の方が読み手に与えるインパクトは強く、時には面白さを倍増させる可能性を秘めているために、雑誌の投稿でハガキがそのまま印刷される場合は実に有効であるといえる。一方ラジオの場合、字は見えないのだからそこは気にせず、個性を殺してでも丁寧さを重視した。パーソナリティがハガキを読む時のことを考えると、字は読みやすい方が良い。読み間違いでおもしろさが半減、時にはゼロになってしまうことだってある。
 パーソナリティの目線になり、改行にも細心の注意を払った。
(中略)
 表記にも気を遣った。私は「いつ」を「何時」と漢字で書きがちであったが、パーソナリティが「なんじ」と読んでしまう危険性があると考え、平仮名に替えた。呼称で使用する「君」も「キミ」にした。人数を訊ねる時の「何人」も「なんにん」にして「なにじん」と読まれないようにした。

 

 田村Rにとってキーパーソンともいえる2人に出会ったことは大きかった。ひとりはbamboo氏である。

「2006年に長野を出て、バイトをしつつ投稿も細々と続けていました。当時は『ネットラジオ』が広がり始めていた頃で、その中のひとつに『男達の沈黙』という番組がありました。PCゲーム業界のクリエイター3人がパーソナリティの番組で、ノリやトークが深夜ラジオっぽくて聴き始めました。ネタコーナーとポイントレースもあり、投稿しました。自分は番組後期に送って連覇したのですが、初期に連覇していた方と一緒に、最終回のゲストとして出演させてもらったんです。投稿していたラジオのスタジオでしゃべるという貴重な体験でした。その番組を率いていたのがbambooさんという方で、電気グルーヴのオールナイトニッポンのヘビーリスナーで『バカサイ』の読者でもあったようです。その後も大変お世話になりました」

 もうひとりがヴィン★セント秋山氏だ。

「ヤングガンガンの『ヴィン魂』というページにもネタを送っていて、その選者だったヴィン★セント秋山さんのお声がけでライター業を始めることもできました。後に月刊ビッグガンガンで始まった投稿ページには助手として参加しました。エニックスの雑誌で投稿を始めた者からすれば、夢のような話です」

 この2人だけではなく、極楽とんぼの加藤氏であったり放送作家の石川氏であったり、田村Rは要所要所で周りに恵まれていたといえよう。明るくない田村Rがいたとしても田村Rを明るくしてくれる人がいた。辛い田村Rでも楽しませてくれる人がいた。ふたつの田村がどちらか一方にならないようしてくれていて、ふたつの田村の接着剤的な役割の人たちがいてくれたのだ。

 いつか田村Rがそちらの立場になる時がくるはずで、それが楽しみである。

 また飲みに行こう。田村Rは飲めないが。

 

【プロフィール】
せきしろ
作家。俳人。ASH&D所属。結社『断片』。近著として、SF掌編集『宇宙の果てには売店がある』、自由律俳句集『そんな言葉があることを忘れていた』等。『又吉・せきしろのなにもしない散歩』(BSよしもと)出演。『武田砂鉄 ラジオマガジン』(文化放送)月曜レギュラー。ザ・ギース尾関&広本瑠璃『#年の差ラジオ』(中国放送)構成。

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