■投稿活動の本格化、投稿仲間もできて……

 この戸井康成氏の存在がさだ馬刺しとラジオを、そして投稿を強く結びつけることになる。
1996年にさだ馬刺しは推薦で岐阜の大学に入学し、ギターサークルに所属したがまったく馴染めなかった。その分さらにラジオにはまることとなり、戸井康成氏の存在が大きくなっていく。

「戸井さんが岐阜放送ラジオでやっていた『戸井康成のヤングスタジオ1431』『ナイトスクランブル』なども聴いていて、いつしか番組の手伝い的なことをするようになりました。とはいえリスナーのふりをして番組に電話をするだけですが。

 ただ毎回同じキャラだといけないから、自分なりに簡単な台本をつくっていろんなキャラになりきって電話しました。自分ではない別人になれるというのがとにかく楽しかったです。同時に投稿も別人を装い、いろいろなラジオネームで送っていました。だいたいは下ネタみたいな酷いラジオネームでしたが……。覚えているのは中出中也、ハッピ着てハッピーマニア、ジャイアンになれなくて、最高ですか?、オイトマン、バイト先の先輩OB、などですね。思い出しただけで恥ずかしいです。そうやって色々ラジオネームを変えていたら、戸井さんに『いい加減、ラジオネームを一個にしろ!』って言われて選んだのが『さだ馬刺し』です」

 ここでさだ馬刺しが誕生する。戸井康成氏は「さだ馬刺し」の産みの親と言えよう。

 さだ馬刺しの活動範囲は徐々に広がっていく。

「その頃CBCでよく出待ちをしていました。『電波ファイター木曜日』や『戸井康成の生ラジオ』など。レインボースタジオという大通りから丸見えのスタジオがあってガラス越しに見学することができました。集まったリスナーが生放送中に一発芸をするコーナーなんかもありました。

 そこで名古屋周辺の投稿者と知り合うようになりました。全国ネットのラジオや雑誌で名前をよく聞いていた伊藤利夫さん、開花宣言さん、すてきなバカさん、ヤンマー部隊隊長さんなどがいました。『あなたもネタ出してるんですか?』と話しかけられて『はい、さだ馬刺しという……』『あ、キミか!』ってやり取りがあって。でも正直最初は苦痛でした。すてきなバカさんに2時間くらい電話で『お前面白くないよ』って言われたり、みんなでネタハガキを交換し合って「おもしろい」「つまんない」って言い合う時間もあってそれにも抵抗ありました。

 ネタを考えてそれを投稿することは自分の中では『秘め事』で、採用されて初めてみんな知る、というのが自分の中ではベストだったので、出す前にみんなにいろいろ言われるのは好きではない時間でした」

 当時はまだ投稿者に市民権がなかった時代である。ハガキで投稿していることがバレると馬鹿にされることも日常茶飯事だった。私もよく先輩に「たかがハガキ職人が!」と言われたものである。さだ馬刺しの言う「秘め事」という表現はよくわかる。ちなみに私は一時投稿者だったことを隠すようになった時期があった。

「でも嫌なことばかりではなく、ラジオのことや投稿のことなんかを共有できる人ができて楽しくもありました。週末みんなでマクドナルドに集まり、何時間もハガキを書いたりラジオ談義をしたりしましたね」

 他人のネタに触れることによって、自分の独りよがりに気づいて、視野が広がることがある。さだ馬刺しにとっては苦手な時間もあっただろうがその経験ができる良さもあったはずだ。その証拠に次のステップへと繋がる。

「僕は相変わらずふつおたしか出してなかったんですが、名古屋周辺の仲間に『ハガキ職人がふつおただけでネタコーナー出さないのはつまらないよ』と言われて、ネタハガキを書くようになりました。最初は地元の番組が多かったですが、全国ネットにも出してみようかなと思い始めました」

 たしかに当時「ふつおた」で採用されてもそれは採用数にカウントされないと考える投稿者はいた。私もどちらかと言えばそっち派であった。

 そこでさだ馬刺しは『U-turnのオールナイトニッポン』に投稿し始める。すると番組のポイントレースで優勝する。

「1位と言ってもラッキーパンチみたいなもので。投稿者みんなで同じくらいのポイントで並んでいたんですが、『じゃあ、さだ馬刺しはここで採用されたからプラス10ポイント!』みたいなボーナスがあって、1位になりました」

 ちなみにさだ馬刺しはU-turnのラジオのイベントに参加もした。1999年の番組イベントで『ファミコンウォーズ』のCMのように砂浜をリスナーみんなで走った思い出もある。

「U-turnの土田さんも対馬さんも職人たちに気さくに話かけてくれて、いいお兄さんだった印象です」

 さだ馬刺しにとって楽しい時間であった。

 同時期に海砂利水魚(現・くりぃむしちゅー)とも関わりを持つ。

「海砂利水魚さんが名古屋でやってた『本気汁』というラジオも聴いていたんですが、素人を番組のアシスタントにするというオーディションがあって、『ああ面白そうだなあ』って感じで、なんの気なしに履歴書送ったら合格しました。

 上田さんは当時金髪で、階段で煙草を吸っていて怖そうなイメージだったんですけど、有田さんには『さだはラジオ好きなんだ。すてきなバカとか他の奴らとかも知ってるの?』って話しかけてもらってよくしていただきました。アシスタントは半年くらいやりました。でもその頃はそろそろ就職しなければいけない時期で、かなり迷ったんですけど就職することにして。正直ちょっと欲はありました。芸人さんやラジオ関係の仕事に結びつけばいいなと少しは思っていたので。

 それと僕は人生でちやほやされたこと本当になかったんですけど、アシスタントをやっていた時は全然知らない女の子に『さだ馬刺しさんですか?』って声をかけられることもあって。もちろん僕の背後には海砂利水魚さんがいるからこその話なんですが、リスナーに手紙もらったり、お菓子もらったり、赤ちゃん以来のちやほや期でした。ちょっとだけ夢を見ましたね……」

 さだ馬刺しが就職を選択したのにはわけがあった。実家の工場が倒産してしまい、さだ馬刺しの母親も過労で倒れてしまう。大好きなラジオと関わり続けたかったが、一般企業に就職する道を選ぶことになる。

 名古屋の会社に就職し、東京の営業所に勤めることになった。そこは珍味を扱う会社であった。

 さだ馬刺しは上京する前に海砂利水魚に挨拶に行く。それは上京3日前のことだ。

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