放送作家の道ではなく、就職を決めたハガキ職人に海砂利水魚・有田哲平がかけた言葉【投稿と生きる-ハガキ職人たちの人生-】の画像
せきしろ(写真/著者提供)

 2026年、「週刊SPA!」の最長連載にして、読者投稿コーナーの最高峰『バカはサイレンで泣く』の連載が終わった。当該ページの担当者のひとり、文筆家のせきしろが、雑誌・ラジオ投稿に情熱を傾けたハガキ職人たち、それぞれの人生を辿る。「ネタハガキの投稿」に魅入られてしまった、市井の人々の歩みを紡ぐ。

 

■さだ馬刺し編

せきしろ「投稿と生きる -ハガキ職人たちの人生-」第1回

 

 この世には「さだ馬刺し」という名の人間がいる。もちろん本名ではない。ペンネームであり、ラジオネームだ。雑誌やラジオ番組への投稿を行う「投稿者」である。

 ハガキ職人という呼び名もある。昨今、ハガキで投稿することなどほとんどないだろうがいまだに言葉は残っている。

 さだ馬刺しは1977年5月19日、岐阜県で生まれた。松尾芭蕉の結びの地である岐阜県大垣市から車で30分ほどの小さな田舎町で生まれ育った。さだ馬刺し曰く、田んぼと工場の人口70000人ほどの町で、今は6割が高齢者とのことである。

 子どもの頃のさだ馬刺しはファミコンゾイド、ビックリマンなど、欲しいものはたくさんあったものの親に気を遣ってなにも言えなかった。それなのに新作ファミコンソフトやキラカードを持っていると嘘をつくことがあり、それがすぐにバレて友達は少なくなっていった。

 さだ馬刺しは3人兄弟で上に兄が2人いる。長兄とは10歳離れていて、次兄とは7歳差だ。さだ馬刺しは次兄に様々な影響を受けたようだ。次兄の部屋にはジャンプ、マガジン、サンデー、チャンピオン、ヤンジャン、ヤンマガなどがあり、ひたすら読み漁り、やがてネタを書くときに重要になるカルチャーを吸収していった。ドラクエ1〜5はその兄がプレイし終わってから遊ばせてもらった。

 父親は30歳の時に公務員を辞めて、町工場を立ち上げた。そこではテレビ台、下駄箱、家具などを扱っていた。その工場がさだ馬刺しとラジオを結びつけた。

「実家が町工場で、そこでずっとAMラジオが流れていました。聴いているうちにラジオがおもしろくなり、そこから岐阜放送ラジオの夜の番組や東海ラジオの『mamiのRADIかるコミュニケーション』などのアニラジを聴くようになりました」

 そんな身近にあったラジオが、中学生になってさらに親密なものになっていく。

「ラジオ番組で最初に読まれたのは、ネタハガキではなくプレゼントに応募した時にハガキに書いたコメントでした。CoCoの『CoCo恋は大騒ぎ』というラジオ番組だったのですが『大野幹代ちゃん大好きです!』って書いたら『勝敏君(※さだ馬刺しの本名)、私も大好きだよ!』って返されました」

 私ごとではあるが、ラジオで自分のハガキが初めて読まれた時の興奮は決して忘れることはない。嬉しくて興奮し、じっとしていられなくなり意味もなく外に出た。その時の光景、夏になる前の午前5時頃の風景の色をまだ覚えている。藍色が薄くなっていくような夜明けの色で、自販機が光っていた。私はその時の興奮が忘れられなくて、またそれを味わいたい欲求からハガキを送るようになり「投稿者」の道を進み始めたのである。しかしさだ馬刺しはそうではなかった。

「ネタコーナーに出すことはなかったですね。ネタのハガキはどうしても苦手で書けなくて、ふつおた(普通のお便りの略称 ※編集部注)とか質問ネタばかり送っていました。とにかく、ネタのハガキってどうやって書けば良いのかわからなくて……」

 のちに週刊SPA!の読者投稿ページ『バカサイ』で6連覇を果たすさだ馬刺しにもそんな時があったとは少々意外ではあるものの、投稿していた私にとってその感覚はわからなくもない。

 同じリスナーでも聴くだけの人たちと投稿する人たちは違う。そこには大きな隔たりがある。私は小学生の頃からラジオを聴いていたが自分が投稿することなど考えたことがなかった。投稿して採用されている人たちは別世界の人たちであり、私にとってはテレビに出ているタレントと同じような存在だった。よくもこんなおもしろいことが書けるものだとただただ尊敬していた。

 それはラジオだけではなく、当時多かった素人参加番組や雑誌の投稿ページも同じで、自分には到底無理だと思っていた。やってみたいと思うことがあっても何をどう考え、どうアウトプットするのかわからなかった。

 しかし高校生の時、授業中にたまたまおもしろいことを思いついて、それが当時聴いていたとんねるずオールナイトニッポンのコーナーにちょうど良いと思い、ハガキを送ってみた。するとそれが読まれたのだ。それが私の最初のターニングポイントとなり、就職しない人生を進むことになった。それが良かったのか悪かったのかはわからないが、こうやってその頃のことを書く機会があるということは良かったのだと思いたい。

「中学生だった1994年頃は伊集院光さんの『Oh!デカナイト』も聴いていました。雑音交じりの中、電波の良い場所を探しながらでしたが。『無敵のゴレンジャープロジェクト』のコーナーが好きでした。伊集院さんは元々『冨カン』(CREATIVE COMPANY 冨田和音株式会社)っていう、名古屋のCBCラジオにも出ていてそれも聴いていました。『冨カン』で木曜パーソナリティをしていた戸井康成さんにはまり、かなり心酔しました」

  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4