1994年から2001年まで『ビッグコミックオリジナル』(小学館)にて連載された浦沢直樹氏による名作サスペンス『MONSTER』。本作を語るとき、まず思い浮かぶのが「怪物」と呼ばれた男、ヨハン・リーベルトの存在だろう。
彼は人の心を巧みに操り、数多くの悲劇を生み出していく。その姿は、まさにタイトルが示す通りの「モンスター」といえるだろう。
しかし、物語を読み進め、そして読み返すほどに、ある疑問が浮かび上がってくる。作中における怪物は、本当にヨハンただ1人だったのだろうか……という部分。
今回は『MONSTER』に潜む「本当のモンスター」といえる人物たちに焦点を当て、その内面を探ってみたい。
※本記事には作品の核心部分の内容を含みます。
■怪物を生み出した男「クラウス・ポッペ」
物語の核心に位置し、すべての悲劇の起点となった人物。それがフランツ・ボナパルタ、本名クラウス・ポッペである。
彼は心理学者であり、絵本作家としても知られる人物で、作中に登場する『なまえのないかいぶつ』をはじめとする不気味な作品を世に残している。エミル・シェーベなど複数のペンネームを使い分けていた彼だが、長らくその正体は謎に包まれていた。
しかしその実体は、チェコスロバキア秘密警察の元大尉であった。彼は共産主義体制下において“理想のエリート”を生み出すという大義名分のもと、子どもたちの精神を意のままに操作する非人道的な教育実験を主導していたのである。
ポッペは自身の絵本を用いた“朗読会”を通じて、子どもたちのアイデンティティを揺さぶり、人格を再構築するという恐ろしい実験をおこなっていた。この手法は後に東ドイツの孤児院「511キンダーハイム」にも取り入れられ、さらなる多くの悲劇を生み出すことになる。
興味深いのは、彼は実験対象であった双子の母に抱いた恋心によって、計画を自ら破綻させた点だ。「赤いバラの屋敷」での惨劇後、彼はルーエンハイムという町へ移り住み、身を潜めて暮らしていた。そこにかつての冷徹な面影はなく、ホテルのオーナーとして静かに暮らし、贖罪のように双子の絵を描き続ける老人の姿があるのみだった。
しかし、彼の蒔いた「悪意の種」はすでに彼の手を離れ、国家という巨大なシステムの中で止めることのできない連鎖として進行していった。そう考えると、本当の意味での「モンスター」とは、特定の個人ではなく「人間を兵器として作り替えようとする非人道的な思想」そのものだったのかもしれない。
■すべての始まり…ヨハンを捨てた母「双子の母親」
ヨハンという怪物の深層をたどっていくと、最後に突き当たるのは双子の母親の存在である。
彼女の姿や過去は物語の終盤までほとんど語られない。しかし、プラハを脱出しようとする彼女と双子の前にボナパルタの組織が立ちはだかった場面こそ、この物語における大きな分岐点であった。
組織が突きつけたのは「双子のうち、どちらか一人を連れていく」というあまりにも残酷な要求だった。極限の状況に追い詰められた母親は、苦悩の末に一人の子どもを差し出す。その結果、実験のために連れ去られたのは妹のアンナ(ニナ・フォルトナー)であった。
このとき、彼女が下した選択の真意は作中で明確には語られていない。しかし、この出来事がヨハンの心に決定的な疑念を植えつけた。「母は自分を助けようとして妹を差し出したのか。それとも、自分と妹を間違えたのか」という問いである。
前者ならば、自分は妹を犠牲にして生き延びた存在であり、後者ならば、自分という人間は母親にとって代わりが利く存在であったことになる。
最後の拠り所であるはずの母親が極限状況で下した決断こそが、ヨハンの存在意義そのものを根底から揺るがしてしまった。この出来事こそが、ヨハンの心に深く取り返しのつかない傷として刻まれ、怪物を生み出す決定的な引き金となってしまうのである。
もちろん母親自身もまた、ボナパルタの実験に翻弄された被害者の一人である。しかし、それと同時に、あの瞬間の選択が一人の少年の人生を大きく変えてしまった可能性も否定できない。
そう考えたとき、彼女もまたこの物語における「モンスター」の一人だったのかもしれない。


