発売から35周年…今思えば信じられない任天堂『ゲームボーイ』の“トンデモなさ”の画像
『GAME BOY』(画像は任天堂ホームページより)

 1989年4月に発売され、今年で35周年を迎えた『ゲームボーイ』(任天堂)。当時は昭和から平成に変わったばかりで、“新しい時代の幕開け”というイメージだったにもかかわらず、なんと画面がモノクロで驚かされたものだ。

 筆者も昭和生まれだが、さすがに白黒テレビはお目にかかったことがない。「売れるのか?」そんな周囲の心配をよそに、この『ゲームボーイ』は周知のとおり爆発的なヒットとなった。

 そんな『ゲームボーイ』の、今思えば信じられない「真実」を振り返ってみよう。

■デザインはとてもシンプル! 充電機能はなくてもファミコン世代には問題なし

 『ゲームボーイ』のデザインはとてもシンプルだった。縦長のボディに2.45インチのモノクロ液晶、十字ボタンとA・Bボタン、セレクトボタン、スタートボタンのみ。ファミコンに慣れているユーザーにとってコントローラーと同じような配置は手に取りやすく、操作しやすいイメージが持てたもの。

 今では持ち運びできる商品の場合、充電機能が当たり前となっているが、『ゲームボーイ』は基本的に単三電池が4本必要だった。専用アダプタがあれば接続しながら遊ぶこともできたが、家で寝転びながら遊べたり、外出先で楽しめるというのは、当時の子どもたちにとってとんでもない魅力だっただろう(のちに充電バッテリーなども発売された)。

 なにより通信ケーブルを使った対戦ができるのも良かった。わざわざ公園でやる必要もないのに、待ち合わせ場所で友達と対戦したりするなど、夢中になった。

 ちなみに筆者は中学校卒業のころ、手術のために1週間ほど入院生活となったが、兄が『ゲームボーイ』を貸してくれたおかげで寂しさを紛らわせたものである。

■湾岸戦争を耐え抜いた驚異のタフネスボディ

 1990年にイラクがクウェートに侵攻すると湾岸戦争が勃発し、任天堂はゲーム会社ができる支援物資として『ゲームボーイ』を提供している。

 1988年までにイランとイラクで紛争が長年続いていたことから、筆者の通った中学校でも英語・社会の教師らが「対岸の火事ではない」と授業中に歴史背景から熱く語るなどしており、かなり不安に思っていた。

 この湾岸戦争中、ある兵舎が火災により壊滅し、そこで外装が黒焦げの『ゲームボーイ』が発見されている。しかし、機械は問題なかったようで起動もできていた。いやはや、とんでもない耐久性だ。さすがは日本が誇るゲーム機といえるだろう。

 ちなみにこの黒焦げの『ゲームボーイ』は、その後、長らくニューヨークの任天堂直営店で展示されていた。液晶にはテトリスのデモ画面が映し出されており、アダプター機能も無事だったことが分かる(現在では、展示終了している)。

 ただ『ゲームボーイ』で遊び、気持ちをリフレッシュしていた兵士たちがどうなったのかは分からない。戦争はゲームのなかだけにしてほしいものである……。

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