漫画『少年は荒野をめざす』『ぼくだけが知っている』などの代表作で知られる、漫画家・吉野朔実さん(享年57)が亡くなってから、20日で5年が過ぎた。訃報が届いたのは2016年5月2日。「吉野朔実先生がご病気のため4月20日にご逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます」と、作品を掲載していた『月刊フラワーズ』(小学館)の公式サイトが発表。吉野さんの突然の訃報に、多くの関係者・ファンが悲しみにくれた。
吉野朔実さんの漫画といえば、人間の心の深淵を美しくも狂気的に描く作風で知られている。繊細に、エキセントリックに、文学の香りを漂わせながら、読者を魅了する数多くの名セリフも残した。その代表例が、多様な恋愛観を真摯に描いた名作『恋愛的瞬間』である。
『恋愛的瞬間』は1996年から1998年にかけて『ぶ~け』(集英社)で連載された1話完結型の連作。恋愛心理学を専門とする、心理学博士・森依四月(もりえしがつ)のクリニックには風変わりな患者が訪れる。恋愛とは何なのか。クリニックでアルバイトをするハルタは、患者たちの多種多様な恋愛の形に触れながら、自身の恋愛を見つめていく。恋愛に悩んだことのある、悩み続けている人の胸に届くメッセージが数多く散りばめられた作品である。
■「恋をするのが当然だと思い込んでいませんか?」
第6話では、恋をしたことがないという女性がクリニックを訪れる。恋愛がどういうものなのか、人と親密になるというのはどういうことなのかが分からないという。高校を卒業して7年、周囲の人たちが結婚するなか自分だけが恋愛感情を理解できず、このままでは犯罪を犯してしまうのではないかと悩みを募らせていった。そんな彼女に対し、森依は物語後半で、「恋をしたことがない。それは恥ずかしいことですか? 恋をするのが当然だと思い込んでいませんか?」と諭す。
「しなくたっていいんですよ。人が言うほど当り前じゃないんだから。でなければTVや映画にあれほど恋愛物が多いはずがない。運命の恋人に会った者に他人の物語は必要が無いんです。本当に恋をしている者も、本物の恋人を持っている者も、人が言うほど多くはない。大多数はいる“はず”だ、好きな“はず”だと思い込んでいるんです。それでも他人とつき合うことは出来るし、結婚は出来るし、子どもも出来るんです」
それを聞いて「それが幸福?」と尋ねる彼女に、森依は続ける。
「至福ではないにしろ幸福です。本質的事実に気づかなければなおよろしい。しかしあなたのように、“はず”や“つもり”では、人とつき合えない人間は、むしろ至福を得る可能性が高い。欠乏感が強い方が、必要なものを得やすいというのが理屈です」(『恋愛的瞬間』第6話「恋をしたことがない」より)
恋をするのは当然なことではない。彼女のように、彼の言葉に救われた人は多くいるだろう。