僕の生まれは、北海道の浜中町というところなんです。釧路と根室の中間にあって、一時、畑正憲がムツゴロウ王国を作って、有名になった町です。
子どもの頃は、生きることに精一杯でしたよ。今は、どの家も寒くないように建てられていますけど、当時は、家にちょっと隙間があると、雪が中まで入ってきましたから。寝ていたら、枕元に雪が積もっているなんてことが当たり前。雪との戦いが、生活でしたね。
雪国をテーマにした作品もありますけど、僕なんかはどっぷりでしたから、かえって描けない。今でも雪を見ると、うんざりしちゃうんですよ。
田舎ですから、事件が起こることもまずないし、刺激的なニュースなんてほとんどなかった。唯一の楽しみが、映画やラジオ、雑誌でしたね。新しい映画が公開されると、吹雪のなか、映画館まで行きましたよ。ダルマストーブを焚いた狭い映画館で、食い入るようにスクリーンを見ていました。
雑誌では、手塚治虫先生の作品に衝撃を受けましたね。のらくろだとか他の作品を読んでいても漫画の描き方まで教えてはくれなかったんですが、手塚先生の漫画を読むと、漫画の描き方がよくわかった。そのとき、僕も漫画家になろうと決心したんです。
手塚先生が世に出てから、石ノ森章太郎さんや、藤子不二雄さん、赤塚不二夫さんが出たでしょう。きっと、みなさん手塚先生の漫画を見て、漫画の描き方がわかったんじゃないかなと思いますね。
手塚先生は、すごい人ですよ。先生の作品に触れていなかったら、漫画家になっていなかったと思います。
いざ、東京に出てきても、他の漫画家は10代、20代前半でデビューして活躍しているのに、僕が『ルパン三世』を書いたのが、30歳のとき。東京に出てきて、ちょうど10年目ですよ。一緒に、漫画を始めた連中もみんな途中で辞めちゃって、結局残ったのは僕だけ。みんな実家に帰って、寿司屋だとか、旅館だとか家業を継いでいましたね。
ただ、僕の場合は北海道に帰って、親父の漁師を継ぐって考えは一切出てきませんでした。東京だったら、雪がないから、外でも生活できますしね。僕の場合、夢は一本だけ、それを外したら何も残らないとわかっていました。ひたすら、大衆にウケる漫画をどうしたら、描けるかっていうことだけを考えていましたね。