■様々なハガキ職人や芸人が交錯した「ある種のシーン」

 番組が終わった翌週、番組の打ち上げ的なイベントをした。これはニッポン放送は無関係で、山里氏と私が自主的に主催したもので、渋谷のシアターDでオールナイトイベントとして開催した。

「土曜の深夜、ちょうど最終回の次の週だった気がします。ここではじめてせきしろさんとお会いしたんですよ。狭いシアターDの廊下で。呼んでいただいて嬉しかったです。僕がリスナー代表として呼ばれ、みんなで大喜利させていただきました。当時mixiでせきしろさんから突然連絡が来たとき相当嬉しかった覚えがあります」

 業務用菩薩とはその後長い付き合いになる。私が主催するイベントを手伝ってもらうこともあれば、逆に彼が主催のイベントに私が出演させてもらうこともあった。この頃からよくお笑いイベントをやるようになって、山里氏の他、又吉直樹氏と知り合ったりバッファロー吾郎のA先生が上京してきたり、芸人ではないが劇作家の上田誠氏などが加わって、決して大きなものではなかったもののある種のシーンをみんなで作ったと自負している。

「『大喜利寺子屋』というイベントでは、山里さんやせきしろさん、当時『3600』というネットラジオを行っていたオードリー若林さんにも出ていただきました」

 山里氏と若林氏が出会うきっかけを作ったのも業務用菩薩である。

「思い出せば色んなことがありました。『落合記念館ゲーム』というイベントでは立会人としてZeppTOKYO(当時)に立たせていただいたり、『消耗戦』というイベントでは浜崎あゆみの本棚を勝手に再現したり、せきしろさんが1人で5時間大喜利をやる『ユーモアナイト』ではユーモアチルドレンとして影マイクをやらせていただきました。非常に思い出深いです。そして、ご縁があってTBSの『あらびき団』にリサーチャーとして入ることになった時に、せきしろさんが『菩薩、卒業おめでとう』ということで、ハガキ職人卒業式を行ってくれました」

 業務用菩薩が関わったイベントの中に『ハガキ職人ナイト』がある。2007年9月29日、これまたシアターDにて開催された。業務用菩薩とさだ馬刺しが邂逅したのはこのイベントである。

 『ハガキ職人ナイト』は、業務用菩薩と構成作家であるふかわげんき氏と投稿者の本多平八郎氏の3人が立ち上げたイベントで、投稿者が純粋に主役となり、彼らにスポットが当たるイベントはこれが最初だったはずだ。

「かつてあったラジオや雑誌の投稿コーナーを復活させて、それを舞台上で投稿していこう話になったんですよ。その頃『オフ喜利』というイベントがあって、自分たちでも何かやってみようということになりました。みんなで集まって回答を出し合えば新しい表現の形になるのではと考えました。参加した投稿者はさだ馬刺し、下村ゲソン、たまに大阪、田村R、哲ひと、テムシステム、ニセ生物、本多平八郎、私だけの十字架です」

 当時の投稿界の錚々たるメンバーである。バカサイにも投稿してくれていた人も多い。

 ハガキ職人ナイトは2008年に第2回目、第3回目が行われ、さらに続いていくことになるが、これに関してはまた別の機会に触れるとしよう。

 この頃から投稿を取り巻く環境が刻々と変化していった記憶がある。明らかに時代が変わり、私の頃は恥ずかしさがあったハガキ職人と名乗ることが当たり前となり、ラジオや雑誌の投稿が「大喜利」という言葉に置きかわった。メール投稿が主流となり、数を出す人が急速に増えた。SNSも登場し、採用されなかったネタを披露する場所もできた。そんな変化がかなりのスピードで投稿者たちに襲いかかってきていた。そこで生まれた新たなスターもいれば、消えていった投稿者もいる。

 業務用菩薩は最後にこんなことを教えてくれた。

「そういえば番組ノベルティのタオル、めちゃくちゃ良かったですよ。家族で使ってました。いまだに実家にあると思います」

 『南海キャンディーズ山里亮太のオールナイトニッポンR』とプリントされた白く薄っぺらいタオルは私の実家にもまだあり、洗面所に置いてある。ちなみに自費で作ったものである。

 その後、業務用菩薩はテレビ局に就職し、出世して立派になった。一方、あの頃からあまり変わっていない私は、何かと業務用菩薩のお世話になっているのである。

 

【プロフィール】
せきしろ
作家。俳人。ASH&D所属。結社『断片』。近著として、SF掌編集『宇宙の果てには売店がある』、自由律俳句集『そんな言葉があることを忘れていた』等。『又吉・せきしろのなにもしない散歩』(BSよしもと)出演。『武田砂鉄 #ラジオマガジン』(文化放送)月曜レギュラー。ザ・ギース尾関&広本瑠璃『#年の差ラジオ』(中国放送)構成。

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