2026年、「週刊SPA!」の最長連載にして、読者投稿コーナーの最高峰『バカはサイレンで泣く』の連載が終わった。当該ページの担当者のひとり、文筆家のせきしろが、雑誌・ラジオ投稿に情熱を傾けたハガキ職人たち、それぞれの人生を辿る。「ネタハガキの投稿」に魅入られてしまった、市井の人々の歩みを紡ぐ。
■業務用菩薩編
せきしろ「投稿と生きる -ハガキ職人たちの人生-」第2回
私はお笑いに関わる仕事に憧れ、僅かながらもお笑いがある場所に身を置いていたが、完全に離れてしまった時期がある。1998年くらいから2005年くらいは、ほぼお笑いを見ていない。理由は割愛する。いつかその頃の関係者が亡くなって、自分だけ生き残った形になった時に書こうと思っている。
番組で言えば、『爆笑オンエアバトル』あたりがちょうど抜け落ちている。このあたりの芸人さんはすべて後追いである。その頃のラジオ番組もわからない。唯一、雑誌の投稿ページはやっていたので、そこに送られてくるハガキを読んで心を満たしていた。それもあり、私は「投稿者」が好きなのである。
そんな私がまたお笑いに関わるようになるのは2006年あたりだ。南海キャンディーズの山里亮太氏に出会ったのがきっかけだ。
私は2006年にニッポン放送『南海キャンディーズ山里亮太のオールナイトニッポンR』に構成作家として関わった。約3ヶ月、毎週土曜日の27:00〜28:30に放送された、短くとも濃い番組だった(一部地域では27:00〜28:00)。
私もまだ30代で若かったし、パーソナリティの山里氏に至っては20代であったから、深夜から明け方にかけての放送であったにもかかわらず、とにかく元気だった。「やりたいことをやろう」を合言葉に有楽町へと通い、朝方に放送が終わればそのままどこかに行って飲み食いした。
当時のラジオ局にはまだまだ特有の嫌な部分が残っていた。なにかしらのハラスメントが充満していた。私はラジオ局と深く関わっていたわけでもないが、それでも違和感を覚えることは多かった。
私はおもしろさを第一に考え、当時の不要な慣習に抗いながら構成の仕事をし続けた。そのために、いつしか生意気で厄介者という扱いになっていた。山里氏が連れてきたよく知らない邪魔な奴と認識されていた。居場所がすぐになくなった。自分で始めた仕事であったらすぐに辞めていただろうが、山里氏経由でお願いされた仕事であったのでかろうじて続けることができた。
もちろん嫌なことだけではなく、山里氏との番組は面白かったし、番組がきっかけで今でも付き合いのあるひとりの投稿者に出会うこともできた。名前は『業務用菩薩』だ。
業務用菩薩は1984年、千葉県で生まれた。彼がラジオとの関わりを持ったのは早く、小学校4年生の時である。
「姉が電気グルーヴのオールナイトニッポンを聴いていて、テープに録音してくれていたのでそれを聴いていました。当時はまだよくわからない部分もありましたが、おもしろいってこういう事なんだというのを教えてもらった気がします」
小学生で電気グルーヴのオールナイトニッポンを聴くのは明らかに早い気もするが、触れたことのない未知のおもしろさと出会ったのは幸運なことである。私は小学生の時に『大橋照子のラジオはアメリカン』(TBSラジオ)という番組に出会った。リスナーの投稿のおもしろさは小学生には高度であったが、ナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)の提供の番組であったから当時好きだったゲームの音が流れるのもあり毎週聴いていた。知らないおもしろさを教えてもらった最初の体験かもしれない。もちろんその頃は自分で投稿するなど考えてもいなかった。
業務用菩薩がラジオと自発的に交差したのは1996年。小学校6年生だ。
「ネタの投稿ではないですが、文化放送の斉藤一美のとんカツワイド『FRIDAY SUPER COUNTDOWN 50』で曲をリクエストをしました。その時に初めて自分の名前をラジオで呼ばれて嬉しくなったのを覚えています。たしかFAXで投稿しました。リクエストしたのは川本真琴の『愛の才能』です。
その後も当時文化放送でよく流れていたTWO-MIXをリクエストしてました。なんとなく採用されるであろうラインをその時から読んでいたんだと思います。そして、安室奈美恵が宣伝していたアイスのZEROのCD(シュガーレスアイスZEROのCMソング『ゼロから歩き出そう』)も貰いました」
ここで重要なキーワードである「採用されるであろうライン」が登場した。投稿する上で、あるいは投稿を続ける上で、番組の「ライン」を意識することは非常に大切である。そのラインをレベルと言い換えても支障はない。投稿ネタが読まれやすいラインを見極めて、そのライン上かほんの少し上で出すのがベストである。ラインより下すぎるとつまらなくて不採用になるのは当たり前だが、上すぎるとこれまた採用されづらい。ネタが高度すぎると理解されづらくなるし番組に合わなくもなる。
小学校6年生の時点でここを意識して分析していたとは、さすが業務用菩薩としか言えない。後述するが、業務用菩薩はのちに東京大学に入学することになる。こういった分析力には長けていたのだろう。
そしてもうひとつのキーワードであるFAX。メール投稿がなかった頃はリアルタイムで番組に自分の反応を届ける手段としては電話が一般的であったが、やがてFAXを使う方法が登場した。FAXは少々高価なものだったために私は持っていなかった。しかしそこで他の投稿者と差がついてしまうのが嫌で、コンビニからFAXを送った。しかしFAXを送っている間は放送が聴けなかったので小型ラジオを買って対応していた記憶がある。ちなみに、さだ馬刺し(※前回参照)は初めてのバイト代でFAXを購入した。
「ネタの投稿で最初に読まれたのは中学1年生の時で『ナインティナインのオールナイトニッポン』でした。『悪い人の夢』というコーナーで、オリンピックの競泳に出場したジンバブエの選手の心の叫びみたいなものを書いた覚えがあります。当時剣道部だったのですが生活指導の先生が顧問で、その人が土日も休みなく厳しく指導するタイプで、とにかく部活が苦しすぎて辛くて、生きる望みをラジオにかけていた時期でした。『セルゲイブブカ』というコーナーにもハガキを送っていました。
あと『今週のインパクト』という今週あったどうでもいい芸能ゴシップを送るコーナーがあって、そこにも送っていました。その頃はどの番組にも本名で送っていました。パーソナリティが自分の名前を言ってくれているのが嬉しくて、呼ばれるたびに喜びを噛みしめていました」
パーソナリティに名前を呼んで貰った時の高揚感。その気持ちはよくわかる。名前を呼ばれた瞬間、興奮度はマックスになる。それは冗談ではなく死んでしまってもおかしくないほどだ。当時はラジオネームの前に住所の一部(都道府県や、市、区など)も読まれることがあって、それが自分と同じ場所だけで緊張した。そのまま自分の名前が続けば気を失いそうにすらなるし、別の名前であったならがっかりしたものだ。
「とにかくラジオは、パーソナリティの素の部分が出るので、テレビや楽屋での裏話を聞くのが楽しかったです。普段は聞けないことがラジオなら話してくれる。パーソナリティが我々リスナーにしか教えてくれないことを話してくれるという秘密を共有しているような状況がとにかく嬉しかったです。これぞラジオならではだなあと思ってました。
当時はテレビを見てラジオを聞いてという日々が続きました。芸人さんのネタも好きだったので、『赤坂お笑いDOJO』(TBSラジオ)と『お笑い!ネタとこ勝負』(ラジオ日本)のふたつのネタ番組をテープに録音して、そこから自分でベストアルバムを作る感じで、18KIN、やるせなす、アンタッチャブル、ネギねこ調査隊、ホームチームとかのネタテープを作っていました」
業務用菩薩はさらに様々なラジオ番組を聴く。『宮川賢の誰なんだお前は!?』(TBSラジオ)、『今田・東野のカモンファンキーリップス』(文化放送)、『コサキンDEワァオ』(TBSラジオ)、『極楽とんぼの吠え魂』(TBSラジオ)、『ふかわりょうのDEEPERSTREET』(TFM)、『安斎肇、みうらじゅんのTR2』(J-WAVE)、『バナナマンの火曜WANTED』(TFM)など、ざっと挙げただけでも各放送局の多種多様な番組を聞いているのがわかる。それが業務用菩薩の糧となっていった。
「高校生くらいの時にインターネットが一般的になって、いろんなホームページを見るようになったんですが、ラジオ番組の音声を文字起こししてまとめている人や、投稿ネタをまとめている人がいたんですよ。それを見て『どの芸能人をネタにして書くのが面白いのか?』などをチェックして分析していました。
投稿者がホームページを運営していたのを見つけて、その人に直接メールを送ったこともありました。ラジオネームは消印所沢さんです。伊集院さんのラジオって皆さんとんでもない角度で毎週いろんなネタを投稿していて、そんなの自分では全然思いつかなかったので、番組でよく名前を聞いていた消印所沢さんに連絡しました。どうやったら面白い投稿ができるんだろうと考え、何か情報を得ようと思いながらメールのやり取りをした記憶があります」
業務用菩薩は相変わらず情報を得て分析を続け、貪欲に投稿に取り組んでいた。
ところがある時ラジオとお笑いからいったん離れることになる。
「大学受験に失敗したんです。それで浪人生活が始まりました。学校の授業だけやっていれば大学も合格できると思っていたら、どこにも受からず浪人生活が始まりました。浪人して代々木ゼミナールに通ったら、これは相当勉強しないと受からないぞと実感して毎日15、6時間勉強してました。浪人中はほとんどテレビは見なかったです。ラジオも聴いてません。その頃は娯楽に触れた記憶がないですね。あれだけ好きだったお笑いも演劇も映画もテレビも見ずに1年間ただひたすら勉強してました。模試はずっとD判定でしたが、1年頑張ったので東大に合格することができました」
ちなみに業務用菩薩の勉強法は『東大生が選んだ勉強法』(PHP文庫)に寄稿されている。もしも今受験真っただ中の人やこれから受験だという人は参考にしてもらいたい。


