「何をするかしないか。裏切るか裏切らないか。それを描くことが劇です」富野由悠季監督が語る『Gのレコンギスタ』のアニメ論の画像
富野由悠季氏(撮影/髙橋しのの)
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 現在、劇場版『Gのレコンギスタ』シリーズ(以下、『G-レコ』)の最終作にあたる『GのレコンギスタV』「死線を越えて」が公開している。本作の総監督を務め、19年の第1部公開から足掛け、3年を経た富野由悠季総監督にインタビュー。鋭い言葉の裏に秘めた作り手としての「いま」に迫る。

■「バカさ」を作ってこれなかった

『G-レコ』の主人公のベルリ・ゼナムをはじめとするキャラクターたちの躍動する姿が印象的な本作。彼やヒロインのアイーダは、まさにこの作品のガイドとなるキャラクター。富野監督はこの登場人物たちにどんな思いを込めたのか。

「実は、この作品において、ベルリ、アイーダのキャラクターは一つの心残りです。無理して引き立たせる必要はないが、もっと個性的にするべきだったんじゃないのかという思いがあるからです。『ONE PIECE』や『鬼滅の刃』のような、一点だけで押し切るキャラクターがやっぱり良いのかもしれない。それこそ『機動戦士ガンダム』のアムロ・レイみたいな落ちこぼれのキャラクターを作ったわけだけど、今回のベルリも、彼と同じ系譜に入ってしまった。ただ、一方でこうも思うんです。世の中というのはベルリのような普通の存在で溢れているのだと。だから、『北斗の拳』のケンシロウには成り得なかったとも言えます。
 戯作というのは、はっきりしたキャラクター作りというのが前提の一つにありますが、それが作れないんです。その点で三谷幸喜にはなれないし、作家になれない。だけど、それだけに『G-レコ』が出来たという言い方があります。そのうえで、ベルリの周りに、あれだけのキャラクターを生み出せたという点では、戯作者としては無能ではなかったのかなと自負しています。同時にあなたの周囲の世界には、これだけの人間がいるでしょうという点は示せたと思います」

 とはいえ、『G-レコ』を観ると、根本でなによりキャラクターたちの元気さに心健やかになれるものがある。そこに底流するポジティブさは近年の富野作品の特徴の一つ。

「それを受け取ってくれるのは嬉しいな。それを聞いて、逆に思うのは、そんなものが好きになるのは、バカだろうとも思うわけです。だから、バカで押し切るキャラクターを作るのがいいのかもしれないと言える。うぬぼれて言いますが、僕くらい理性があると、あのバカさが悔しいことに作れない。『ONE PIECE』の主人公のようなわかりやすさを作れないんです。僕は『ONE PIECE』の初期の頃、よく読んでいて、そこで初めの10冊くらいで作者が創作者になっていく過程、勉強の過程がつくづくわかった。あの実直さが僕にはなかったんです。自分では自分のことを生真面目だと思っていたのですが、ただの怠け者だったことにこの歳になってようやく気づいたのです。その意味では、作家になれなかったことには、多少の自己嫌悪はあります」

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