『シルバー2425』『ノーモア★ヒーローズ』須田剛一がゲームで死を描き続ける理由の画像
画像は須田氏が手がけたNintendoSwutch用アドベンチャーゲーム『シルバー2425』
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 他所では作れないゲームを作ることを一つの目標に、『グラスホッパー・マニファクチュア』という会社を立ち上げて、28年になります。

 ビデオゲームと出会ったのは小学生の頃。ボウリング場にゲーム機が置いてあって、アメリカから輸入されてきた『スター・ウォーズ』なんかが並んでいた。見たこともないマシンに、もう興奮しましたね。ただ、1ゲーム300円とか、べらぼうに高くて、しかも1分もたたないうちに死んでしまうんですけど、何回もやりたくなって。それは光の世界に取り込まれるような体験で、アメリカからスゴイものが入ってきたなって感じたのを鮮烈に覚えています。

 でも、「自分で作りたい」とは考えませんでした。当時、ゲームを作っているのは“博士”だと思っていたんです。ゲームは白衣を着た博士がガチャガチャとプラグをつなげたり、でっかい電算機を使ったりして出来上がってくるもので、任天堂にはそんな博士がいっぱいいるんだろうなって(笑)。当時は、ゲームを作っている人が表に出てこなかったし、よく分からなかったんですよね。それくらいの感覚でしたから、ゲームクリエイターを目指そうなんて発想はありませんでした。

 もともと、僕はグラフィックデザインの仕事をしていて、ゲーム業界大手の『セガ』の広告も担当しました。そのうち、「広告を作る人に実際に遊んでほしい」と、ゲームセンター向けの『バーチャレーシング』という新製品をプレイさせてもらえることになったんですね。会社に行ってみると、鈴木裕さんという著名なクリエイターが開発現場……業界では有名な「AM2研」という部署を案内してくれたんですが、そこに博士はいなかった(笑)。自分と同じような私服の若者たちが普通に仕事をしていて、ゲーム業界がグッと近くに感じられました。そこで「こんな場所でゲームを作る仕事ができたら最高だろうな」と、ぼんやりと憧れのようなものを持ったんです。

 その後、僕は葬儀屋に転職します。1年たった頃に「社員にならないか」と声をかけていただいて、“よし、葬儀の仕事を一生やっていこう”と腹をくくりました。それを妻に話すと、「それでいいの? 本当はやりたいことがあるんじゃないの?」と。

 そのとき、頭をよぎったのは、ゲーム業界への憧れでした。そんな妻の言葉で、ゲームの世界に挑戦しようと決意したんです。

 それから、求人雑誌を見てゲーム会社に書類を送り続け、プロレスゲームで人気の『ヒューマン』というメーカーに採用されました。でも実は、書類段階で落ちていたらしいんです。ただ、人事担当の人が連絡するのを忘れていた(笑)。1か月ほど音沙汰がなかったので、僕が諦め半分で問い合わせをしてみると、たまたま看板シリーズ『ファイヤープロレスリング』のディレクターが辞表を出したタイミングだった。

 僕がプロレスゲームの企画書を送っていたこともあって、急遽面接に呼ばれて、そのまま採用。今考えれば、運命的な感じでしたね。

 ヒューマンでは、会社員として『ファイヤープロレスリング』の他、『トワイライトシンドローム』というアドベンチャーゲームのシリーズも手がけました。でも、自分のオリジナル作品、代表作と言えるものは作ることができなかった。やがて、会社が経営的にヤバそうな空気が漂ってきて(笑)。応援してくれる人もいたので、『トワイライトシンドローム』を作ったスタッフと一緒に、チームとして独立しました。それが『グラスホッパー・マニファクチュア』です。

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