1989年4月21日に産声を上げた伝説の携帯ゲーム機「ゲームボーイ」。その売上台数は、最終的に日本国内だけで3200万台。世界でなんと1億1800万台以上。ゲームボーイの中興の祖は、『ポケットモンスター』であることは間違いない。
発売当初は破竹の勢いで販売台数を増やし続けたゲームボーイだが、登場から数年が経ち、世は次世代ゲーム機戦争の時代へと突入。ユーザーはさらに高画質で、さらに複雑な表現を求めるようになり、テレビゲーム業界全体もそういったタイトルに注力するようになった。90年代半ばも過ぎた頃には、すっかりゲームボーイは過去のゲーム機扱いされるようになり、新作タイトルも途絶えようとしていた。そんなタイミングで発売されたのが「ポケットモンスター緑・赤」である。
本作は、株式会社ゲームフリーク代表の田尻智が長年温めてきたタイトルだった。ゲームボーイ発売直後、田尻はゲームボーイの通信機能を利用し「収集したモンスターを交換する」というコンセプトのゲームの着想を得る。「仮面ライダーカード」や「ビックリマンシール」などのように、いつの時代も収集・交換は子供たちにとって定番の遊びである。それをゲームシステムに取り込んだ「ポケットモンスター」は、1996年2月27日に発売。発売直後は終わりかけのハードの新作ということで、それほど期待されていなかったものの、徐々に口コミで面白さが子どもたちの間に広がり始め、やがて爆発的なヒットへと結びついた。
世は次世代ゲーム機戦争真っ只中。プレイステーションとセガサターンがしのぎを削り、ゲーム業界の雄・任天堂が64ビットマシン「NINTENDO64」で次世代ゲーム機戦争に殴り込みをかけようという時期である。最先端のゲームの魅力に取りつかれたゲームファンたちは「ポケットモンスター」には、ほとんど興味を示さなかった。
しかし、純粋に「面白いゲーム」を求め、お小遣いにも限りがある小学生をはじめとする低年齢層ユーザーは、彼らが大好きな「収集」「交換」のほかに「育成」「対戦」というエキサイティングな要素を持つ「ポケットモンスター」に夢中になっていった。「ポケモン」ヒットの秘訣は、それだけではなかった。本作は、ゲームボーイの容量の小ささゆえに、全151体のポケモンを1本のカートリッジに収録することができなかった。そのため「緑」と「赤」という2バージョンを用意し、それぞれにちょっとずつ異なるポケモンを収録した。そのため、1本しかソフトを持っていなかったら、いつまでもすべてのポケモンを収集することができない。そこで、子供たちは自分が持っていないバージョンのソフトを持っているプレイヤーを探さねばならなかったのだ。
そういった行動を通じて、子供たちは徐々に「ポケモン」仲間を増やしていったというわけだ。言わば「ポケモン」は携帯ゲーム機のソフトの枠を越え、ある種のコミュニケーション用ツールとしても機能していたのだ。「ポケモン」を持っていることで、友達の輪に入れる。そういう状況は日本各地で見受けられたはずである。