1981年に『週刊少年ジャンプ』で連載がスタートした、高橋陽一氏による大人気サッカー漫画『キャプテン翼』。連載終了後もシリーズを重ね、現在も『キャプテン翼 ライジングサン FINALS』がWEB上でネーム連載されている。
「世界一のサッカー選手」を目指す主人公・大空翼を中心に少年たちの成長を描いた本作は、世界中で愛読されているサッカー漫画の金字塔。現実のスター選手たちに多大な影響を与えたことでも知られている。
その一方で、作中には多くの“謎”や“不思議”も存在し、ネット上ではファンによるツッコミ祭りが起きるほどだ。今回はそんな数ある「謎」の中から7つを掘り起こしてみた。
※本記事には作品の内容を含みます
■ファンの間で長らく語られてきた“謎”
まず挙げられるのは、若林源三が修哲小学校5年生の代でどうやって全国優勝を果たしたのかという点だ。
若林は4年生時にレギュラーとなっているが、この年に全国優勝したのは同じ静岡県の志水FCだった。5年生時に“修哲カルテット”がレギュラー入りしたものの、来生哲兵のシュート力、滝一のセンタリング、井沢守のジャンプ力、高杉真吾のロングスローだけでは、戦力として十分とは言い難いように感じる。若林の鉄壁の守りと“必勝パターン”とされた「とりかご」で、全試合を無失点で守り切ったのだろうか。
『キャプテン翼MEMORIES』では、日向小次郎が5年生時の埼玉県大会決勝戦にて5得点を挙げるも、対戦相手に7点を奪われ敗退したことが描かれている(若島津健が明和FC入りしたのはこの敗戦後である)。石崎了の「全国大会も年ねんレベルアップしてきたし」というセリフが示す通り、翼たちが6年生の時の大会は、明和FC、ふらの、武蔵FC、花輪S.S、難波FCといった強豪が揃い、異常にレベルが高かったのかもしれない。
ともあれ、前年、前々年に全国制覇した学校がある中で選抜チームを結成した南葛市のサッカー協会の判断は、英断だったと言えよう。
南葛中学校の全国大会V3達成にも不可解な点が多い。翼が1、2年生のとき、日向のいる東邦学園を下して優勝したとされているが、その試合の描写は一切ない。若林や岬太郎もいない公立中学が、スカウトで人材を集めていた私立の名門をいかにして破ったのか。
小学校編の決勝戦は翼、岬、若林の主力3人が怪我をしていたから苦戦しただけで、翼単独でも勝利できるほどの実力差があったのだろうか。これに関しては、やはり翼がロベルト本郷の残した「ロベルトノート」によって急成長した、というのが妥当だろう。
岬がフランスへ渡った後、長期間音信不通となった点も、ファンの間で長年語られてきた謎の1つである。岬は小学生編終了後に父親の仕事でフランスへ渡るが、約3年間、翼たちと一切連絡を取らなかった。翼自身もあまり気にしていない様子で、後に若林経由で岬の居場所を知ることになる。
当時の通信手段の制約を考慮しても、友情描写としてはやや冷淡に感じられる。だが、そもそも岬は別れがつらくなるという理由で、仲間に黙って去ろうとしていた。
売れない画家である父親は子どもの友人の住所を調べる余裕などなく、岬本人も翼たちの住所までは記憶していなかった可能性も考えられる。単純に「連絡先が正確にわからなかった」のであれば、不義理とまでは言えないのかもしれない。


