1980年代といえば、テレビ、アニメ、ゲーム、おもちゃなど、数々のブームが巻き起こったアツい時代。そんな熱狂の真っ只中を生きたのが、昭和47年(1972年)生まれの芸人・土田晃之。“華の47年組”の一人として、著書『僕たちが愛した昭和カルチャー回顧録』を上梓した彼が、子どもの頃に堪能した「昭和カルチャー」を独自の視点で語り尽くします!
■おニャン子クラブとの出会いは『夕ニャン』から
アイドルにハマったのは、おニャン子クラブからですね。最初に買ったレコードも、中1のときの『セーラー服を脱がさないで』。おニャン子の活動期間は僕が中1から中3まで。だから全部レコードで持ってます。
おニャン子は『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系)でハマりましたね。ただ、もともと僕は『夕ニャン』観られなくて。中学で野球部に入ったから、帰るのが夜7時とかで全然観られない。それがある日、練習中にケガしたんですよね。目にボールがぶつかって。それで眼科に行ってそのまま帰って、そのとき初めて、クラスのみんなが話してる『夕ニャン』ってのを観たんですよ。
それがめっちゃ面白い! “なんだ、これ!”って、むちゃくちゃ面白かった。生放送で夕方にあんな番組いままでなかったから。とんねるずさんも当時若くてガンガンやりたい放題やってて。
それからはもう『夕ニャン』が観たくて、野球部ズル休みして観るようになって。「もうダメだ! 観たくてたまんない!」って、それで野球部を辞めるっていう。
おニャン子では最初、新田恵利さんが好きでした。最終的には工藤静香さんでしたけど。新田恵利さんの実家のほうまでチャリで行きましたからね。
工藤静香さんが写真集(『Lady Phantom』)出したときは中3だったんですが、福生まで行って写真集の中に出てくる福生駅で同じ写真撮りましたから。友だちにそれ見せて自慢すると、「お前、行ったの?」ってビックリされるっていう。
■最年少、中学生で親衛隊に参加!
それで僕はのちに工藤さんの親衛隊に入るんですよ。でも最初は我妻佳代さんの親衛隊に入っちゃったんですけどね。我妻さんが大宮ソニックシティに来たときに、「親衛隊に入りませんか?」って声かけられて。僕はてっきり“おニャン子全体の親衛隊”だと思って名前と連絡先書いたら、それが我妻さんの親衛隊で。
親衛隊は暴走族みたいなシステムで、「我妻隊」が単体であるんじゃなくてほかのメンバーの親衛隊も連合になってて、イベントで人が足りないとほかの隊が駆けつけたり。当時、文化放送の“電話リクエスト”の番組に、みんなで集まってリクエストしたり。イベント前に掃除したり、“お茶会”っていう本人とお茶できる会があったり。もっとも名簿に名前はあっても来ない人はいっぱいいたけど。
最初に呼ばれたのが、中3の12月に稲毛海岸であった“うしろ髪ひかれ隊”のイベントの手伝い。僕は工藤静香さんに会いたくて行ったら、周りは大学生とか高校生ばっかで僕が一番年下。リーダーの高校生に「中学生です」って言ったら、「高校入試の大事な時期に来るなんて、お前根性入ってんな!」って勝手によく解釈してくれて、お昼までおごってくれて。
イベントが終わって、会場でお兄さんたちと一緒に、お客さんに「親衛隊に入りませんか?」って声かけてたら、隣にいた高校生のお兄さんが、「実はさ、俺本当は満里奈隊に入ろうとしたら我妻隊に入っちゃって。今日、隊長に言おうと思うんだ……」ってこっそり僕に話しかけてきた。
僕も「静香隊に行きたい」って言おうとしてたから、「先に言われると困りますよ!」って。しかもリーダーには昼メシまでおごってもらったうえに、「土田は気合い入ってるから、お茶会に呼んでやるよ」とまで言われてて。「この流れで僕は言えない……」って思って。さすがにその日は言えませんでしたね。
それから少し経って静香隊に移ったけど、親衛隊の活動には行かなかったです。高校に入ってからはバンドブームになって。「高校入っておニャン子なんて言ってらんねーよ!」って言いながら、工藤静香さんの下敷き使ってましたけど。


