ハッピーエンドからバッドエンドまで、様々な形で迎えるアニメの最終回。人気アニメであればあるほど賛否もわかれるものだが、どのような形だとしてもきれいに終われば視聴者にいい余韻を残す。その一方で「……え?」と視聴者を混乱の渦に陥れたアニメもある。
たとえば、根強い人気を誇るアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』もその一つだ。テレビアニメ最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」では、残されていた謎に触れることなく、自分を肯定できるようになった碇シンジを彼と関わった人々が次々に祝福し、「父に、ありがとう 母に、さようなら そして、 全ての子供達(チルドレン)に おめでとう」の文字が表示されて終わる。この最終回には、多種多様な声が寄せられたが、当時リアルタイムで視聴していた人はもちろん、放送から数年後に噂を聞いてアニメを見た人の多くは、やはりボーゼンとしてしまったのではないだろうか。
今回は、同じように視聴者を驚かせた昔懐かしいアニメの最終回を振り返ってみよう。
■まさに伝説...全滅エンド迎えた『伝説巨神イデオン』
『無敵超人ザンボット3』『聖戦士ダンバイン』『機動戦士Vガンダム』など、物語ラストに向けて登場人物たちが次々と凄惨な最期を迎えることで「皆殺しの富野」という異名でファンを戦慄させてきた富野由悠季監督によるアニメ作品。
そんな富野監督が1980年に手がけたアニメ『伝説巨神イデオン』もまた、最終話ラスト数分に起こる衝撃展開により伝説の最終回として語られるようになった作品のひとつだ。
同作は、無限のエネルギーである人知を超えた精神体「イデ」の眠る惑星・ソロ星を開拓した地球人と、イデを求めて降り立った異星人バッフ・クランが、小さなトラブルを発端に分かり合えないまま、全面戦争に発展していく物語。
激戦で多くの死者を出した両種族。地球人ベスと恋に落ち、子どもを身籠った異星人カララが、イデの力によってバッフ・クランの総司令でもある父・ドバの元に送られるが、和解への訴えも届かず、ドバは娘に激昂し対話は決裂する。
そして両種族が最後の戦いに突入……と思われた次のシーン。「その瞬間であった、イデの発動が起こったのは」というナレーションとともに、人々は眩い閃光に包み込まれる。「カララとドバの対面こそ、イデが与えた最後のチャンスだったのだ。それを人々はお互いに拒否した。そのためにイデは、その無限力を解放したのだ」「地球もバッフ・クランの人々も、因果地平、すなわち宇宙の果てへ四散したのかもしれなかった」と語られ、エンディング曲が流れる中、両陣営のキャラたちが絶叫しながらいきなり全滅したのである。
不意打ちで起こったこの超展開に多くの視聴者がショックを受けたが、その後1982年に劇場版「接触篇」「発動篇」が公開される。未公開分をまとめた「発動篇」は、最終回の人々の死に様をより詳細に描きショック度も高いが、真のエンディングが見られる必見作だ。
■嵐を呼ぶ最終回!メタ発言で驚かせた『勇者特急マイトガイン』
最後の最後に、「そんなのアリ?」と視聴者を驚かせたのが1993年にテレビ朝日系で放送された『勇者』シリーズの第4弾『勇者特急マイトガイン』だ。
主人公・旋風寺舞人が巨悪の根源であるブラック・ノワールに立ち向かうアニメで、物語終盤、最凶の作戦「クリスマス・オペレーション」を発動したブラック・ノワールは、驚異の再生能力が宿る“魔のオーラ”を纏った洗礼ロボを使い、舞人たち勇者特急隊を全滅寸前まで追い詰める。
魔のオーラの弱点が特殊波動イノセントウェーブだということに気づいたウォルフガング博士は、イノセントウェーブ増幅装置を作り、舞人はそれを搭載したグレートマイトガインで進撃する。
ついに訪れた最終第47話「嵐を呼ぶ最終回」。強敵の一人エグゼブは、最終回で初登場となったインペリアルに乗り込みグレートマイトガインをねじ伏せた。全滅かと思われたそのとき、共闘していたライバルのジョーが轟龍1機のドリルで特攻してエグゼブを貫く。もともと轟龍の設計に口を出していたエグゼブは「だからドリルは取れと言ったのだ」と不満を漏らしながら死亡した。
舞人と対峙したブラック・ノワールは、「自分は次元を超えてやってきた三次元人だ。この二次元世界の支配者、神と言ってもいい」と自らの正体を明かす。そして「我々はおまえたち二次元人を使ってゲームをしていたのさ。おまえたちはただのゲームの駒だ。そして旋風寺舞人、おまえはヒーローという駒として作られた」という衝撃的な発言をする。三次元は我々の現実世界、つまり彼は我々と同じ人間だというのだ。
この急に語られる新設定に多くの視聴者も困惑したに違いない。だが、強力なイノセントウェーブを放つ吉永サリーとマイトガインの力の前に敗れてしまう。そして、「そうか、私もゲームの駒だったのか……巨大な悪という名前の……」とさらなる衝撃的暴露をして散った。
その後、ラストシーンは結婚した舞人とサリーのハネムーンの様子が描かれるが、エンディング画面でこのカットのカメラが徐々に引いていき「セル画」であることが分かる演出がとられている。全ては創り物に過ぎない……という、メタ要素満載なこの終わり方は、今見ても新鮮で面白い。