■原作付きマンガで明確になっていく両誌のカラー

――早い時期から両誌の違いが明確になっていたんですね。

中川 きわめて単純化すれば、手塚陣営の『サンデー』、非・手塚陣営の『マガジン』となります。別に手塚先生は講談社と敵対しているわけではないんですが、結果的にそうなってしまった。

 『マガジン』は手塚治虫を逃したことで、人脈的には貸本マンガ出身者に目を向け、さらに原作つきマンガという新ジャンルの開拓に成功しました。 

 手塚先生は、コマ漫画(それまでの風刺的な1コマ、2コマで完結する漫画)から『鉄腕アトム』のようなストーリーマンガを生んだわけですが、その結果、マンガとは、マンガ家ひとりで描くという前例を作ってしまった。

 ストーリーを考え、キャラクターも創造し、絵も自分で描くのが、マンガでした。映画で言えば、ひとりで脚本家を描いて監督して、主演もするようなものです。そんなことをこなせるのは、ごくわずかの天才だけですが、手塚先生は、その手法をスタンダードにしてしまったんです。そこで苦しむマンガ家も多くいて、原作者という存在が、絵はうまいけどストーリーが書けないというような若いマンガ家には救済にもなったわけです。

――『サンデー』は自己完結できるマンガ家たちを揃えたから、それがなかった?

中川 それもあるし、もともと講談社は編集部主導の会社だったんですよ。小説でも編集者が企画を立てて、内容に合った作家を探して書いてもらう伝統がありました。それに加えて、『マガジン』編集部の人たちがマンガで育っていない世代だったというのもあります。

 当時の編集者は戦前生まれなので、子ども時代に手塚マンガの洗礼を受けていない。だから、「俺は小説雑誌が作りたかった。マンガなんか読まない」と豪語する編集者も大勢いた。しかし、なかなか小説に匹敵するマンガができてこない。そこで、専門の作家や脚本家に原作を書かせて、絵は絵の専門家が描けばいいとなった。

 これは、手塚先生のマンガ作りを知っていたらこの流れにはならなかったんじゃないかと思います。

 もっとも、『マガジン』には創刊2年目の1960年から、既存の小説を原作としたマンガ『快傑ハリマオ』が連載されています。当初、『マガジン』は手塚先生に依頼したのですが、手塚先生が石森章太郎先生を紹介し、手塚先生がネームを切って、石森先生が描くという方式で、連載を始めたものです。途中から、石森先生がひとりで描くようになりました。これで、石森章太郎先生と『マガジン』の関係が始まり、『サイボーグ009』『幻魔大戦』(平井和正原作)、『リュウの道』が生まれるわけです。さらに、『仮面ライダー』も。

 その意味では、『マガジン』の原作つきマンガ路線には、手塚先生とトキワ荘グループが貢献しているとも言えます。
  ※  ※  ※  ※

 1959年3月17日に『週刊少年サンデー』と『週刊少年マガジン』が創刊され、その後の日本の漫画の潮流となる週刊誌時代が幕を開ける。2月21日に発売となった中川右介氏の著書『第二次マンガ革命史 劇画と青年コミックの誕生』では、2誌の誕生から、「劇画」による“第二次マンガ革命”によって起きた各社の青年コミックによる戦国時代までの日本の漫画の激動の歴史がまとめられている。

 

■中川右介/なかがわゆうすけ
作家、編集者。1960年、東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。
出版社勤務の後、「アルファベータ」を設立。
2014年まで、代表取締役編集長として雑誌「クラシックジャーナル」ほか、音楽家や文学者の評伝、写真集の編集・出版を手掛ける。
一方で作家としても活躍。クラシック音楽のほか、歌舞伎、映画、歌謡曲などにも精通。膨大な資料から埋もれていた史実を掘り起こし、歴史に新しい光を当てる執筆するスタイルを持つ。
マンガ関連の著書には『手塚治虫とトキワ荘』『萩尾望都と竹宮惠子』などがある。

■書籍情報
『第二次マンガ革命史 劇画と青年コミックの誕生』
著・中川右介

すべての世代がマンガを読むのが当たり前となった現代。戦後。手塚治虫が完成させたストーリーマンガは、あくまでも小・中学生が読むものだった。高校生や大学生や社会人、すべての世代がマンガを読む時代を作り上げた、マンガ家たちの「革命」を描く!

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