■10年をかけて「少年雑誌」から「少年マンガ雑誌」に
――とても興味深いお話です。そこから『サンデー』と『マガジン』は、いつ「マンガ雑誌」になったのですか?
中川 目次を見ると面白いことが分かるんですよ。1968年12月に発売された69年1月1日号で、『マガジン』の目次が変わるんです。それまでは、読み物が上にあって、下にマンガが漫画がまとめられて載っていたのが、マンガが上になりました。
――そのときの誌面でのマンガの割合はどうだったんでしょう? 初期は誌面の4割くらいという話でした。
中川 もうとっくに逆転していて、マンガのほうがずっと多かった。60年代半ば頃からそうなっていて、実質的にはすでにマンガ雑誌でした。68年は、『巨人の星』と『あしたのジョー』のおかげで、少年誌初の100万部を突破しています。実質的にはとっくに「マンガ雑誌」でした。それが68年で、名実ともにマンガ雑誌になったわけです。
この1968年は、『少年ジャンプ』が創刊された年ですが、『ジャンプ』は少年誌としては初めて「全部マンガ」というコンセプトで編集され、それを売り物にしていました。つまり、マンガ以外は載っていない。いまでは当たり前ですが、当時としては、画期的でした。
さらにこの年は『ビッグコミック』『プレイコミック』という青年コミック誌も創刊されています。その前年の67年には『週刊漫画アクション』と『ヤングコミック』が創刊されていましたね。マンガを高校生・大学生、さらには若いサラリーマンも読むようになったわけです。
――『サンデー』『マガジン』の部数競争はどちらに軍配が上がっていたのですか?
中川 最初は『サンデー』の勝ちでした。小学館は学年別学習雑誌の出版社だったので、娯楽雑誌は子会社の集英社に任せていました。そこに、『サンデー』という娯楽雑誌を出した。マンガ出版では後発でした。
でも、手塚治虫先生をはじめ、人気のあったトキワ荘グループを押さえたことで、『サンデー』が勝利を収めました。
さらに、1962年になると赤塚不二夫『おそ松くん』、64年から藤子不二雄『オバケのQ太郎』が大ヒットし、テレビアニメにもなったことで、『サンデー』は最初の黄金時代を迎えます。
『マガジン』は人気マンガ家獲得では負けたので、トキワ荘とは異質の、貸本マンガ出身のマンガ家を積極的に起用しましたが、いまひとつ、人気が出ない。そこで考えたのが、小説家や脚本家に漫画のための原作を書いてもらうという方法です。
原作者がついた漫画は『サンデー』もやっていましたが、本格的に原作つきのオリジナルマンガを作る方針を打ち出したのは『マガジン』でした。その最初の成功が、産業スパイ小説で世に出ていた作家・福本和也さんが原作者となった、ちばてつやさんの野球マンガ『ちかいの魔球』(1961年)です。
『ちかいの魔球』で『マガジン』はいったん、部数で『サンデー』を抜くのですが、さっき言った『おそ松くん』『オバケのQ太郎』で、『サンデー』は再逆転に成功。それを、また『マガジン』が、『巨人の星』(梶原一騎、川崎のぼる)や『あしたのジョー』(高森朝雄、ちばてつや)などで抜き返すという歴史です。