ラオウよりカッコいい? 『北斗の拳』雲のジュウザが当時の少年たちの心を鷲掴みにしたワケの画像
『北斗の拳』究極版 第8巻(コアミックス)

 風のヒューイ、炎のシュレン、山のフドウ、海のリハク、雲のジュウザ。『北斗の拳』(原作:武論尊さん、作画:原哲夫さん)に登場した「南斗五車星」の面々だ。なかでも雲のジュウザは、その甘いマスクもあって高い人気を集め、人気投票でも上位の常連となっている。

 当時はとくに少年たちのあいだで人気だったと聞くが、実のところジュウザの登場回数はわずか9話と短く、ストーリーの結果を大きく左右したわけでもない。そんなキャラクターの、いったい何が少年たちの心を鷲掴みにしたのか? その理由について、あらためて検証してみた。

■昭和の思春期少年には倍響く? 自由気ままな生き方

 ジュウザ最大の魅力といえば、やはり雲のように自由気ままな生き方だろう。南斗五車星でありながら、任務であろうが召集であろうが気が向かなければ動かない。誰にも従わず屈しないのが、ジュウザのやり方だ。

 それは相手がラオウであっても変わらない。飄々とかわしつつ、愛馬の黒王号を奪った挙句に尻を叩いて逃走する始末だ。当時のラオウは“拳王”として絶大な力を誇っており、作中における恐怖の象徴でもあった。それを終始翻弄して「ぬう…」と歯ぎしりさせたり、ニヤけ顔で“拳王のクソバカヤロウ”などと言い放つ最期は、なんとも小気味が良い。

 この生き様に魅力を感じる人は多いが、とくに権威に反感を持ち始める時期の少年にとっては、余計にシビれるものがあったろう。奇しくも『北斗の拳』の連載は昭和58年から63年。時代は自由や多様性に向かって動き出しつつも、教育現場ではいまだ厳しい規則や規律が残っていた頃だ。尾崎豊さんが自由への渇望を歌った「卒業」が若い世代を中心に大ヒットしたのも、やはりこの時期だった(昭和60年)。

 そう考えると、ジュウザの自由な生き方は当時の時代が求める理想像そのものだったのかもしれない。その真っただ中にいる少年たちが虜になるのも当然だ。

■やっぱり“やる気のない天才”はカッコいい

 いくら「おれは雲」とうそぶいたところで、“あんた何アホなこと言ってるの!”と力ずくで捻じ伏せられては自由もクソもない。ただの怠け者として南斗五車星をお払い箱になることなく、ラオウをおちょくって死んだだけのお調子者なわけでもなく、最期の瞬間までジュウザは周りに求められ、認められていた。彼には、自由を通すだけの力があったのだ。

 事実、ジュウザは拳の才に恵まれていた。誰に師事するわけでもない我流の拳で、北斗神拳を極めたラオウやトキに肩を並べるほどの強さ。ラオウですら恐れをなすほどのセンスの持ち主である彼は、まさに天才だ。“何者かになりたい!”と希望を抱く少年にとって、憧れるには十分な要素だ。

 またジュウザの普段の様子は、天才キャラのデフォルトとも言えるだろう。彼らは往々にして普段はいい加減でやる気がなく、気分屋で気が向いたときしか実力を発揮しない。しかし本気になったときの力は目覚ましく、周囲を圧倒する。このギャップがまたカッコよさを引き立てる。

 とくに年頃の子どもにとっては、努力はダサく映るもの(ちょっと意地悪を言えば、努力して失敗するのが怖いというのが本音だろうが)。どうせ同じ才能あふれる拳士なら、真面目に修行に励んだラオウやケンシロウよりも、自由でフラフラしながら強くなったジュウザのほうが、少年たちにとってはより魅力的な存在に見えるだろう。

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