ジャンプ黄金時代を支えた名作の一つ『北斗の拳』(原作・武論尊氏、作画・原哲夫氏)が、今年で連載開始40周年を迎える。魅力的なキャラクターが多い本作だが、とりわけ高い人気を集めているのが、主人公ケンシロウの宿敵であり最大のライバル、ラオウだろう。
2007年には「ラオウ昇魂式」と銘打った葬儀が執り行われ、葬儀委員長を務めた歌手の谷村新司や、映画でラオウの声を務めた宇梶剛士、元タレントで政治活動家の森下千里など各界の著名人をはじめ、約3000人ものファンが雨のなか参列した。
このほかにも、2017年にラオウの化粧まわしで土俵入りして話題になった元横綱・稀勢の里、今年W杯が開催されるラグビーの日本代表・稲垣啓太選手もラオウファンとして知られており、その人気は主人公であるケンシロウを凌ぐほどだ。いったいなぜ、ラオウはここまで人々から愛され続けるのだろうか。
■どこまで行っても“人間”らしさを持つラオウ
すべてを力でねじ伏せ、弱者や愚か者は虫けらのように殺し、恐怖で世紀末を支配するラオウ。その姿は、まさに非情な暴君だ。「愛を帯びるなど我が拳には恥辱‼」という言葉からも分かるとおり、愛や情けはラオウにとって弱さや脆さであり、強さの妨げでしかなかったのだろう。
しかし同時に、ラオウは最後まで愛を捨てきることのできない人でもあった。実弟・トキに対しては、拳法家として示しをつける形で命を助け、「体を愛えよ トキ……」と兄の顔を見せた。また、ケンシロウに対抗するためユリアを殺そうとしたときも結局果たせず、最終的にはケンシロウと二人で穏やかに余生を過ごす選択をさせている。
“一見非情だけど実は情に厚いところもある”といった二面性を持つキャラクターは多いが、ラオウの場合、そこからさらに“情を捨てようとしているのに捨てきれない”という葛藤や、それを誰にも明かせない孤独が見えてくる。また、情という人間臭い部分を捨てたがっていること自体が逆に人間臭い行為であり、そういう矛盾を孕んでいるのもまた人間ならではだろう。
どこまで行っても一人の“人間”なのだと思うと、恐怖の拳王もちょっとだけ可愛らしく身近に見えてくる。このギャップが、人々を惹きつける要因の一つではないかと思う。
■広い視野で未来を見据え続けた有能な王
ラオウと同じく愛と情けを捨てて非情な暴君になった男として、聖帝・サウザーが思い浮かぶ。しかし同じ道でも、サウザーは愛によって生じる苦痛に耐えきれずに己の野心に走った、繊細すぎる人だった。
一方のラオウは強さを求め、その強さをもってこの国を統一し、さらにその先に故郷である修羅の国をも統一するという、長期的で明確なビジョンを持っていた。
ラオウの墓前で、ユリアは「統一を果たしたラオウは自分が愛を持つ者に倒され とってかわられる事を願っていたのでは……」と涙ながらに語った。もし本当にそうだとしたら、意識的であれ無意識的であれ平和な未来のために生きたラオウを、ただ“強さに取り憑かれた暴君”と見るには忍びない。
考えてみれば、救世主と呼ばれるケンシロウの最初の目的は、宿敵・シンからユリアを取り戻すことだった。そのあとはただ旅を続けながら目の前で苦しむ人たちを助けていただけで、“世界を救うぞ!”なんて気概はあまり見えてこない。
ほかのキャラクターも同様で、確固たる信念を持つ者はいたが、その源泉となっていたのは個人的な愛や忠誠であることが多かったように思う。その点、広い視野で未来を見据えていたラオウはまさに“王”たる器の持ち主であり、彼らとは何か一線を画す魅力があるのではないだろうか。