■人々の憧れであり続けるその生きざま
2019年、大相撲の第72代横綱・稀勢の里が、東京・両国国技館で引退会見を開いた。このとき発せられた「横綱として皆様の期待に沿えられないことは、非常に悔いが残りますが、私の土俵人生において一片の悔いもございません」という言葉には、多くのラオウファンが感銘を受けたことだろう。
ラオウを語るにあたって、「我が生涯に一片の悔いなし‼」という最期の言葉は、やはり外せない。孤独な戦いを続け、愛したユリアも手に入れられず、ケンシロウに敗れてなおこの言葉が出てくるのは、常に自分の意志で生きてきたからこそだろう。
愛馬である黒王号や雲のジュウザ、元斗皇拳のファルコなど、ラオウが敬意を表した相手はみんな強い意志を持つ者たちだ。ここからも、ラオウがいかに自らの意志で生きることを重視していたかが窺える。
「一片の悔いなし‼」とまでは行かなくとも、できるだけ悔いを残さず生きたいのは誰だって同じだと思う。しかし、それもまた難しい。
たとえばスティーブ・ジョブズのようなイノベーターならまだしも、一般人(とりわけ日本人)は、己を貫くばかりでは社会適応なんてできたものじゃないからだ。意志を貫く強さと空気を読むスキル、バランス良く発揮できれば問題ないが、それができずに苦しんでいる人のほうが現状では多いのではないだろうか。
“そうしたいのにできない”生き方には憧れるし、そう生きたラオウが余計に眩しい。結局のところラオウが愛され続ける一番の理由は、時代が変わっても、その生きざまが多くの人にとって憧れであり続けるからだろう。
強くて、堂々としていて、ちょっと可愛いところもあって、それでもやっぱりカッコいいラオウは、長い時を超えて人々から愛され続けてきた。彼のように生きるのは難しいかもしれないが、せめて心の中に“小さなラオウ”を住まわせておきたいと思う今日この頃だ。