『SLAM DUNK』流川のモデルはマイケル・ジョーダンだった!? 意外と多い共通点や小ネタの数々の画像
『SLAM DUNK』Blu-ray Collection VOL.2(TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D))

 バスケットボール漫画の金字塔、井上雄彦氏による『SLAM DUNK』。本作に登場するキャラクターがNBA選手をモデルにしているというのは有名な話だ。なかでも流川楓のモデルは「バスケットボールの神様」と呼ばれたマイケル・ジョーダンだと言われている。去年公開した映画『THE FIRST SLAM DUNK』もまだまだ続きそうななか、今さらではあるが、流川とマイケル・ジョーダンの共通点や小ネタについてまとめてみた。

■肘のリストバンドや背番号23

 まずは小ネタから。流川のプレイ時の姿を見ると、肘に黒いリストバンドをつけている。「なぜ手首でなく肘?」と思うが、これはジョーダンのトレードマーク。NBAにはこのスタイルを真似する選手が多く、ジョーダンの後継者とも言われ、3年前に事故で亡くなったコービー・ブライアントもその一人だった。

 また背番号に注目すると、ジョーダンは23番、流川は11番。当時、高校バスケの背番号は4~18番までだったため、流川が23番をつけることはできなかったが、物語開始当初で描かれたバスケ部上級生対1年生の練習試合では、しっかり23番のビブスをつけている。さらにバッシュも本作の連載開始当時(1990年)ジョーダンが履いていたのと同じ「エアジョーダン5」だ。

 ちなみに、ジョーダンには幼いころからバスケを教えてくれた兄がいた。その兄の背番号が45番だったので、“せめて兄の半分でもうまくなりたい”という思いで23番にしたという。そう考えると、流川の11番もジョーダンの半分だ。しかもジョーダンの23は45の半分を超えているのに対し、流川の11は23の半分に届いていないというのも、また面白い。

■目を閉じてのフリースロー

 インターハイ初戦の豊玉高校戦で流川が見せた、目を閉じてのフリースロー成功。豊玉の“エースキラー”南烈から顔面に肘打ちを食らい、片目がつぶれて遠近感が掴めないなか、いっそ目を閉じ体の感覚を信じて打とうという判断から来たプレイだった。

 実はこのシーンには、元ネタではないか?といわれている事柄がある。それが、ジョーダンが1991年のデンバー・ナゲッツ戦で見せたプレイだ。当時ナゲッツのルーキーだったディケンベ・ムトンボに対し、ジョーダンは“Hey,Mutombo.This one‘s for you,baby.”と言うと、目を閉じて、そのままフリースローを決めた。新参者に、NBAの洗礼を浴びせたというわけだ。

 流川の場合は、自身はインターハイ初出場チームのルーキーで、相手がインターハイ常連校の3年生。ジョーダンとは逆の立場で同じことをやってのけるというのが、何とも熱いシーンではないか。

■とにかく負けず嫌い

 この豊玉戦、流川は片目が見えない状態でコートに立ち続けた。ただでさえ体力を消耗するバスケットの試合、視野が狭まることで余計に疲れるし、危険も伴う。しかし負けず嫌いな流川は、ここで自分が退場することもチームが負けることも許せなかったのだろう。

 ジョーダンも相当な負けず嫌いとして知られているのだが、とくに1997年の“THE FLU GAME”と呼ばれる試合は有名だ。2勝2敗で迎えたNBAファイナルの第5戦目、ジョーダンは食中毒で高熱を出していた。当然、トレーナーは欠場を指示したが、試合開始2時間前、フラフラのジョーダンが会場に現れ、出場の意思を監督に告げる。そして、38得点、7リバウンド、5アシスト、3スティールの大活躍でチームを勝利に導くと、最後はチームメイトに抱えられてコートをあとにしたのだ。

 このエピソードを聞くと、盲腸を我慢し続けた山王工業高校の一ノ倉聡を連想しないこともないが……実際『SLAM DUNK』に登場する負けず嫌いは流川に限った話ではない。何かの分野で一流に到達するには、負けず嫌いというのは不可欠な要素なのかもしれない。

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