『鉄腕アトム』『火の鳥』『ブラック・ジャック』などなど、33年前に60歳という若さで亡くなった手塚治虫氏の名作を挙げればキリがない。いずれの作品もその後の日本の文化に与えた影響は計り知れないが、公式サイトも認知した「黒手塚」があるのをご存じだろうか? それによると、「人間の暗黒面をシリアスに描く作品」を指しており、その多くが読者に「トラウマ」を植えつけているというのだ。
ここでは、筆者が幼い頃や大人になって読んで衝撃を受けた「黒手塚」から3作品を紹介したいと思う。
■『奇子』戸籍を失い20年以上も土蔵の地下室に幽閉された少女の悲劇と禁忌
今年で50周年を迎えた『奇子(あやこ)』は1972年から約1年半に渡って『ビッグコミック』に掲載された作品だ。戦後の傷跡が残る昭和24年から高度経済成長期までを舞台にした問題作である。
東北地方の大地主である天外(てんげ)家の次男・仁朗(じろう)が殺人に関与し、証拠隠滅の現場をお涼と妹・奇子に目撃されてしまう。仁朗は口封じのためお涼を殺害してしまうが、当主である天外作右衛門たちは一族から「犯罪者」を出してはならぬと考え、幼い奇子が事件を洩らさぬように土蔵の地下室へと「幽閉」する。
奇子は「死んだ者」とされ“偽り”の葬式を出されたうえに「戸籍」も抹消されてしまうのだが、もとより彼女の「出自」そのものが“偽り”であった。なぜなら、奇子は作右衛門の「妻」ではなく、長男・市郎の「嫁」に作右衛門が産ませた不義の子どもであるからだ。
こうして20年もの間、隔絶された世界で心は子供のまま身体だけ大人というアンバランスな成長をした奇子は、三番目の兄・伺朗(しろう)と近親相姦に陥ってしまう。
筆者は幼少時にコミックスを読んだのだが、守ってくれるはずの親が子どもを閉じ込めたり、大勢の大人が誰も奇子を救おうとしない展開が怖かった。
成人してから読み返してみると、当時の世情が詳細に描きながら実際にあった事件とのリンクにより、「フィクション」であるはずの本作に「リアル」さが増している。さらに、作右衛門が君臨する「家」はある意味で外界と隔絶しており、まるでそれが奇子が閉じ込められていた地下室の暗闇と似ている気がした。