■「脚本通りに作る監督なんか一人もいなかった」

 僕がアニメの世界に入って、45年になります。

 70年代の終わりに『宇宙戦艦ヤマト』が、80年代になって『機動戦士ガンダム』が大ヒットし、ブームになりました。それまで、僕らは作品を作っても取材されなかったし、スポンサーからも局からもまるで放ったらかし。つまり、世の中に構われていなかったんです。

 みんな勝手に物作りができて、脚本通りに作る監督なんか一人もいなかった。手作りで、いろいろとデタラメだったけど、その中で最良のものを作ろうとしていた。だから、あの頃のアニメ界は本当に面白かったんです。

 僕は『うる星やつら』の映画を2本(1983年、1984年)撮ってからフリーになりました。その後しばらく、鷺ノ宮(東京都中野区)にあった宮さんの事務所に居候させてもらっていたんです。宮さんが『風の谷のナウシカ』(1984年)を作った後の頃です。

 当時、宮さんとはよく話しました。一生分、話したんじゃないかな。

「あんたと私が映画を作っていられるのは全部、ヤマトとガンダムのおかげなんだよね」

 宮さんはそう言っていましたが、僕もその通りだと思います。確かに『ヤマト』と『ガンダム』がブームになったことで、以前のように好き勝手はできなくなったけど、一方で僕も映画を作れるようになった。

 宮さんからは、レイアウトの重要さを勉強したし、いろいろとパクって学べたこともある。宮さんは「半年は食えなくても大丈夫なだけの貯金はしておけよ」とも教えてくれました。『天空の城ラピュタ』(1986年)を撮るまでは、宮さんも“どうやって食いつないでいくか”を考えるような状態でしたから。 

 本当に面白かったのはその頃までですね。それから宮さんとスタジオジブリは国民的アニメ映画を作り、批評されることがない、誰からもいいことしか言われない存在になってしまった。

 僕は宮さんと長く語り合って、作品を観て、内実も考え方も分かっている。年の離れた友人ではあるけど、お互いにリスペクトしているという関係でもない。そんな僕だからこそ、語れることがあるんじゃないかと、今回『誰も語らなかったジブリを語ろう 増補版』(発行:東京ニュース通信社 発売:講談社)という本を出しました。宮さんの目が黒いうちに、こういう本を作るべきだと思ったんですよね。

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