■終わりは見たいけど、終わってほしくない
話は戻って、大好きな作品の最新作。私はとても楽しみにしていた。楽しみにしていたのだけど、「エヴァンゲリオンの完結!」「これが本当に最後!」などとあおられるたびにS-DATからイヤホンを伸ばし繰り返し流れる音楽で耳を塞ぎたくもなったのだ。半生をかけて愛した作品の終わりを前に「早く見たい!楽しみ!わーい!」と手放しで喜べるほど簡単な女ではない。“終わり”は見たいけど終わってほしくない。「見るなら早くしろ、でなければ帰れ!」なんて言われたら包帯だらけの綾波が目の前に運び込まれても長考してしまうだろう。
私はゲームでも、終わってしまうのが嫌でラスボスを前にしてプレイをやめてしまうときがある。調べてみると同じ感覚の人もけっこういるようで、「大好きな漫画の最終巻が読めない」とかもあるらしい。
この謎現象、さまざまに呼ばれているがここでは「終結のジレンマ」と名づけたいと思う。作品に出逢って、知れば知るほど好きになって、たくさんの時間そのことを考えて、自分の中でどんどん存在が大きくなって、この先どうなるか想像している時間は何よりも楽しい。
どんなに多くのファンがいても、作品とファンの関係性は1対多数だとは思わない。私の中の「エヴァ」は私の中にしかない。オリジナルの提示された「エヴァ」に、私の考えとか思いとか感情がどんどん積み重なっていって、私の中では私だけの「エヴァ」になっているのだ。
だから「さらば、すべてのエヴァンゲリオン。」と書かれたポスターが公開されたとき、私の中のエヴァ、私とエヴァの関係性までもが終結してしまうのではないかと感じてしまったのだ。
ゲームをクリアすること、アニメの最終話を見ること、この「物語の終結」によって自分と対象の関係性まで「終結」してしまう気がして寂しい気持ちになるのではないだろうか。この2つの終結が混ざってしまい、クリアしたいのにしたくない、見たいのに見たくない、気持ちが大きければ大きいほど「終結のジレンマ」も大きくなるような気がする。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のキャッチコピーのひとつ、「続、そして終。非、そして反。」もなんだかこのジレンマに近いようにも思える。延期のあいだ、さらに好きになってしまえばいいと、私は思った。