「考えなさい。調査し、探求し、問いかけ、熟考するのです。」
これは、ウォルト・ディズニーの言葉である。私の好きな言葉のひとつ。考えることが大好きな私にはぴったりの言葉なのだ。
オタクには考察がつきもの。
最初の考察は、きっと『ドラえもん』の映画だったと思う。テレビ版『ドラえもん』に比べ、多くのキャラクターが登場し、事件が起き、伏線がどんどん張られていき、映画『ドラえもん』の内容は非常に複雑なストーリーになっている。
昨年公開された『映画ドラえもん のび太の月面探査記』は、春休みのど真ん中に一人で劇場に観に行った。私以外全員子ども連れのお客さんで、ネットで事前予約した1番見やすい座席中央の“東宝マーク0ズレ”神席をほんのちょっと後悔したが、大人もかなり楽しめる面白さだった。見事な伏線回収はオタクも文句なしに気持ち良い。
藤子・F・不二雄先生にとってドラえもんにおける「SF」は「サイエンス・フィクション」ではなく、「少し不思議」であることは常識であろう。
「少し不思議」に感じたら、やっぱり考察してしまうのがオタクのサガ。また、オタクだからこそ「少し不思議」に敏感に気づくことが出来るとも感じる。「なんで?」「どうして?」と、小さい子どもがお母さんに質問攻めしてる姿はよく見かけるが、たぶん私もそうだったはずだ。その純粋な疑問をいつまでも持ち続けられるから、疑問を持つことが純粋に楽しいから、オタクは考察するのだと思う。
日本のアニメ史において最も多くの人に考察させた作品と言っても過言ではない『エヴァンゲリオン』シリーズ。私も中学生の頃、エヴァのビデオを借りて見たときからずっと考察を続けている。
分からない……こんなに。分からないのに、どうして惹かれてしまうの? どうしてこんなにも気になってしまうの? ……これが、恋? 惣流・アスカ・ラングレーを“嫁”にしてからは、十数年携帯の待ち受け画面はずっとアスカなほど私が一途な想いであることはさておき、作品を視聴した後も楽しく考えさせてくれるエヴァには感謝しかない。
かつて、オタクは孤独だった。はず。オタクとは何かに特化した興味や知識を持つ者のことであり、“サブカルチャー”と呼ばれるぐらいには、生活には本来必要ない分野なわけで、そこに足を踏み入れる人数も相対的に少なくなる。
少し年上のオタクさんに話を聞くと、ネットが活発になる前は、とにかく情報交換の機会も少なく、コミケで考察本を漁り、また次のコミケまで悶々と孤独に考察する日々を過ごしていたとか。このフラストレーションがあるからこそ、リアルで話の通じる仲間に出会ったとき、せきを切ったように早口でしゃべり出してしまう。その仕様は、DNAレベルでオタクからオタクに受け継がれている。
私ももれなく早口で語るタイプ。さらに語れた喜びでどんどん声のボリュームがデカくなってしまうおしゃべりオタクだ。
以前喉を痛めて病院に行ったとき、医者から「早口すぎです、もっとゆっくりしゃべるように、喉にも負担がかかる」と注意を受けたことがある。
「はぁ、気をつけますぅ」と小声でゆっくり答えたが、心の中では「いやいやとは言え人生も時間も限りがあるわけでその中でいかに多くの情報のアウトプットをするかはかなり重要で多くの情報をアウトプットすればその分レスポンスも多いわけだから必然とインプットも多くなるわけで有益な情報が手に入る確率も高くなるんだから1秒でも早く言葉を出したほうが効率的なのは明らかなので早口を止めるのは難しいですよだって常に考えてますから思考が止まらないですからえぇオタクなもんで。」と早口でつぶやいた。