
「漫画」を子ども向けの娯楽から深く心を揺さぶる芸術へと昇華させた、日本漫画界のレジェンド・手塚治虫さん。その比類なき才能は「マンガの神様」と讃えられ、『ジャングル大帝』『鉄腕アトム』『火の鳥』『ブッダ』『ブラック・ジャック』など、手がけた数多くの名作は読者を魅了し、後世の漫画界にまで絶大な影響を与え続けている。
さまざまな作風の漫画を手掛けてきた手塚さんだが、なかには人間の底知れぬ闇を描いた、実に不気味で恐ろしいエピソードも存在する。そこで今回は、人間の心の奥深さと、その裏に潜む計り知れない恐怖を描き出した、ダークな手塚作品の数々を見ていこう。
※本記事には各作品の内容を含みます
■暴走する悪意の行く先は…『ボンバ!』
心のなかで抱いた他人への憎悪が、なにかの形で具現化してしまったら……そんな、どこか恐ろしくも空想的なテーマを描いた作品が、1970年に『別冊少年マガジン』(講談社)で連載された『ボンバ!』である。
本作で主人公となるのは、内向的な性格の中学生・男谷哲。彼は担任の女教師・水島礼子に思いを寄せていたが、暴力教師・鬼頭が彼女に結婚を申し込んだことを知り、鬼頭に激しい憎悪を募らせていく。だが、その負の感情は思わぬ形で世界をゆがめていくことに……。
なんと、哲の敵意に応えるかのように、巨大な馬・ボンバが現れ、鬼頭を殺害してしまうのだ。これをきっかけに、哲が怒りや憎しみを抱くたびボンバは現れ、次々と人間を殺めていく。
やがて哲は成長して上京し、より強く水島への恋心を募らせるのだが、再会を約束していたはずの水島が事故死するという、まさかの悲劇に襲われてしまう。
この出来事を引き金に、哲の感情はさらなる暴走を見せていく。哲の肥大化した憎悪に呼応するかのようにボンバは東京のいたるところに出現し、人々を大量殺戮していくようになってしまうのだ。
哲自身も人を殺めるボンバの存在に怯えつつ、その一方で抑えきれない黒い衝動の狭間で激しく葛藤する。他者の命を奪うことに動揺するかたわら、ときに耐えがたい憎悪に支配され暴走するその姿は、ある意味、実に人間らしいといえるだろう。
物語後半、ついに哲が自分自身を憎んでしまったことで、ボンバの標的が哲へと向けられる。自らを殺そうと現れる巨大な馬を前に、哲は憎悪に振り回され続けてきた自分自身と対峙するのだ。
本作はダークでヘビーなサイコスリラーではあるが、それと同時に、一人の人間が負の感情に悩み立ち向かっていくという、奇妙な成長劇も描かれたエピソードであった。
■繰り返される悲しき過ち『溶けた男』
1969年に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で掲載された『溶けた男』は、研究者の男性が奇妙な青年と出会うことで物語が動き出していく。
主人公の科学者・佐藤栄作は、大学で誰にもバレぬよう、とある薬品の開発に没頭していた。
在日米軍からの依頼を受け研究を続ける佐藤だったが、ある日、深夜の大学で勉学に勤しむ不思議な青年・岡田四郎と出会い、彼の人柄に惹きつけられていく。
しかし、調べてみると“岡田”という学生は在籍しておらず、彼と出会ったはずの教室も存在しないなど、不可解な出来事が続く。
その後、伝手を辿って岡田のことを調査していく佐藤だったが、ここで衝撃の事実が判明。なんと岡田は戦時中に生きる人間であり、大学卒業後に陸軍中野学校にて薬品の研究をおこなっていた故人だったのだ。
戦争に勝利するための薬を開発していた岡田は、その途中、研究の恐ろしさに気付き、軍に薬品を手渡すことを拒否。追い詰められた末、なんと自身でその薬品をかぶり、全身を溶かして絶命していたのである。
佐藤はかつての岡田同様、非人道的な薬を生み出そうとしている自分に気付き、研究を中断することを決意する。しかし、運命のいたずらか、学生運動の参加者たちが大学になだれ込み、研究室をも無茶苦茶に破壊し始めてしまう。
必死に薬を守ろうとした佐藤だったが、偶然、手を離した薬をかぶってしまい、かつての岡田同様、全身が溶けて消え去ってしまうのだ。
作中で岡田や佐藤が生み出した薬の恐ろしさはもちろんのこと、過去の悲劇が繰り返される無情さにも胸を締め付けられてしまう。さらに、武力を捨てきれない人間の愚かさ、人が持つ業の深さすら感じとれてしまう、実に重苦しいエピソードである。