ムード歌謡グループ「純烈」のリーダーにしてプロデューサーの酒井一圭さんは、子役として85年のドラマ『逆転あばれはっちゃく』に主演し、20代で『百獣戦隊ガオレンジャー』でガオブラックを演じたキャリアの持ち主でもある。そんな酒井さんに、これからの純烈の活動についてはもちろん、『あばれはっちゃく』シリーズ、『スーパー戦隊シリーズ』の秘話をたっぷり語ってもらった。(第1回/全3回)
恐れおののいた児童劇団の厳しい世界
──子役として、ステージに立つ側になる以前の酒井さんが「アントニオ猪木と『あばれはっちゃく』と『太陽戦隊サンバルカン』(1981年)のバルイーグルになりたかった」という話は本当ですか?
酒井 それはホンマです。幼稚園の年長とか小学校の低学年とか……動物の飼育員にもなりたかったですけどね。
テレビでプロレスを観て「アントニオ猪木になりたいな」と思ったし、『あばれはっちゃく』を観てあんなふうになりたいと。それから、もともと戦隊が好きで、後楽園ゆうえんちにヒーローショーを観に行くようになって、バルイーグルがジェットコースターに立ち乗りで登場して、そっから飛び降りるんですよ。自分が泣き虫で弱かったんで「ホンマにアクションってすっげえ!」と思って。
──子役時代は「東京宝映テレビ(現:宝映テレビプロダクション)」の所属でしたよね。
酒井 テレビドラマに子役が出ているのを見て、「どうやったら、あの子らみたいにテレビに出られるの?」と親に聞いたら、「児童劇団やろ」と。だから、「じゃあ劇団に入れてくれ」と頼んだのですが、「そんなお金ない。でも、おじいちゃんに頼んで OKやったらええんちゃう?」ということやったんですね。
──児童劇団は、親のほうが積極的であるケースもあるようですが、そうではなかったんですね。
酒井 だから、大阪のおじいちゃんところに行ったんですよ。当時、入団費が20万円で、月謝が何万円と、費用が高い児童劇団もあったのですが、東京放映は一番安かったんです。
だから、東京放映に入団するとかかるお金がいくらなのか、予算をおじいちゃんにぶつけて、習い事感覚の金額で「そんなもんか」みたい感じでした。まあ、誰でも受かるんですけど、受かった時点で「テレビ出られるやん。やったぜ!」みたいに思い込んでいた。ところが、オーディションの話すらなかなか来ないし、受けても全然合格しない。
──80年代前期の東京宝映は、三原じゅん子(当時は三原順子)さんの写真入りで「新人タレント募集」の新聞広告を頻繁に掲載していたので、応募人数も多かったでしょうし、子役同士の生存競争が激しかったのでは?
酒井 そうなんですよ。今でもよくおぼえているのが、学校の音楽室くらいの部屋に、100人ぐらいの子どもが体育座りで待っていたときのことですわ。そこに先生が来て、ある程度、発声練習が終わったら、いきなり「じゃあ、ペチ」って言うんです。
──「ペチ」とは?
酒井 犬の名前です。シナリオのなかで、飼っている犬のペチがいなくなってしまうんですよ、1週間ぐらい。それを表現するレッスンで、3回だけ「ペチ」って言っていいんですが、それ以外は言っちゃダメで。みんな工夫して、いろんな「ペチ」を言うんです。
──犬の名前を3回呼ぶだけの即興劇をやるということですね。
酒井 そういうことです。衝撃だったのがね、ある女の子が、やる前は「できるかなあ?」とか言っていたのに、先生が合図した瞬間、いきなり泣き出したんです。ほんで、悲しそうに「ペチ〜」ってやるんですよ。あるいは、3回目の「ペチ」を言う前に、『フランダースの犬』のパトラッシュみたいなデカいペチが帰ってきたとわかるような動きの表現を上手にする子もいて。飛びついてきたペチに顔をペロペロとなめられたような動きをして、嬉しそうに「ペチッ」と言うんです。そうかと思えば、小型犬のペチを抱き上げる芝居をする子もいて。
──東京放映のレベルの高さを痛感したと。
酒井 もう、恐ろしくてね。だから、だんだん自信をなくしていって、2〜3か月でレッスンに行かなくなってしまうんです。「いってきま〜す」と家を出るんですが、近くの駄菓子屋で時間を潰していました。
──でも、そこから、また劇団に戻るんですよね?
酒井 俺に目をかけてくれた先生がいて、エキストラのオーディションを回してくれるようになったんです。それでまたレッスンに行くようになって。
あるとき、パンのCMのオーディションがあって、4人並んで、「もぐもぐもぐって食べて『おいしい』と言ってください 」と指示されたんです。そのとき、ほかの子どもたちはハッキリと「おいしい!」と言っていたんですが、自分は「食べたばっかりやねんからパンは口に入ったままやろ」と思って、口の中にパンが残っているていで「うぉいすぃ~」って言ったんです。
それまでの俺やったら、“ほかの子役はこうしていたから”という流れに負けて普通にやってしまったと思うんやけど、あまりに受からへんからヤケクソで、自分なりの表現をした。そしたら、そのオーディション受かったんすよ。この体験で、「自分を出していったらええんちゃうか」となって。そういうタイミングで「『あばれはっちゃく』のオーディションがあるぞ」と知ったんです。
──意識改革があった直後に絶好のチャンスが来たんですね。
酒井 でも男子の子役は全員はっちゃくになりたい。せやからまず劇団内で選抜をせえへんと収集がつかないんです。だから、東京放映のなかで10人ぐらいに絞って、その精鋭で、「いざ!」と本番のオーディションに挑みました。