藤子・F・不二雄、藤子不二雄A、石ノ森章太郎※、赤塚不二夫という日本を代表する漫画家たちが若き日に住み、切磋琢磨したアパート「トキワ荘」。日本漫画の巨匠たちのルーツとして、漫画ファンには伝説となった場所だ。建物は1982年に取り壊されたが、現在では「トキワ荘マンガミュージアム」として復活した。(※「A」は丸囲み、「ノ」は小さい半角カタカナ)
日本アニメの黎明期から第一線で活躍してきたアニメ作家・鈴木伸一さん(90)は、そんなトキワ荘の住人の一人。居住していた漫画家たちは、残念ながら多くが他界しており、当時の「トキワ荘のリアル」を知る数少ない人物だ。藤子作品でおなじみ「ラーメン大好き小池さん」のモデルともなった鈴木さんに、貴重な「トキワ荘時代の思い出」を聞いた。【第1回/全3回】
──鈴木伸一さんがトキワ荘で生活することになったきっかけを教えてください。
鈴木伸一さん(以下、鈴木):きっかけは、『漫画少年』(1947~1955年・学童社)という雑誌でした。僕はその雑誌に「風田朗」というペンネームで漫画を投稿していて、比較的入選率が高かったんですね。
そんな縁もあって、地元を離れて東京での生活を始めてから、漫画少年編集部に初めてあいさつに行った時に「テラさん(漫画家の寺田ヒロオ先生)がトキワ荘というアパートにいるから行ってごらん」と言われたんです。テラさんはもともとは常連投稿者のひとりでしたが、その時は『漫画少年』の投稿漫画の選考員として批評を書く立場でもありました。
初めてトキワ荘に行った時には、テラさんと安孫子(素雄)氏(当時・藤子不二雄、のちの藤子不二雄A先生)に会いました。藤本(弘)氏(当時・藤子不二雄、のちの藤子・F・不二雄先生)もいたそうですが、風邪か何かで具合が悪くて部屋で寝込んでいたとのことでした。
──お二人との初対面の印象は?
鈴木:みんな若かったですね(笑)。『漫画少年』の投稿漫画で以前から知っていたので、「あぁ、こういう人がああいう作品を描いていたのか」って、妙に納得しました。でも、藤子不二雄が2人組だったことは、そこで初めて知ったんです。本当に驚きましたね。
──その時点では鈴木さんはトキワ荘で暮らすことは考えてなかったんですか?
鈴木:そうです。その時は恩人だった漫画家の先生の、東京のお宅に居候しながら、印刷会社でデザインの仕事をしていました。トキワ荘にあいさつに行ってからしばらくして、テラさんから「部屋が空いたから住まないか?」と連絡があって、「漫画の仕事はしていないけれど、何とかなるだろう」という気持ちで決めました。
──トキワ荘は“若手漫画家の梁山泊”のイメージがありますが、実際には漫画家ではない、一般の人も住んでいたんですよね。そういう人たちは漫画家のみなさんのことをどう思っていたのでしょうか?
鈴木:あまり評判は良くなかったですよ。騒ぐから(笑)。あまりにうるさくしすぎると、下の階の人がドンドンと叩くんですよ。ほうきの柄か何かで天井を突いて(笑)。
──騒ぎの原因は、新漫画党(※トキワ荘メンバーを中心に構成された漫画家グループ)の会合……でしょうか。
鈴木:そうですね。ひと月に1回、メンバーの部屋を順番に会場にして、話し合いをしていました。お茶の時もあれば、ビールや焼酎のソーダ割りを飲んだり。
──焼酎のソーダ割り……かの有名な“チューダー”ですね!
鈴木:お酒が入ると、みんな陽気になるんです。暗くなることはなかったですね。
──鈴木さんは、トキワ荘にどのくらい住んでいたんでしょうか?
鈴木:引っ越した次の年には鎌倉にあったおとぎプロ(※アニメーション制作会社)に入社したから、そんなに長くはなかった気がします。1年あったかどうかくらいでしょうかね。
──ということは……少し遅れてトキワ荘にやってきた石ノ森章太郎先生(※当時は石森)、赤塚不二夫先生とは、ほぼ入れ替わりのタイミングだった?
鈴木:そうですよ。僕が出た後に「石森ってのが来た」っていうから会いに行ってみたら、ついこの間まで高校生だったという青年で驚きましたね。彼は「東日本漫画研究会」っていうグループを作っていて、その中にはほぼ同時にトキワ荘に入った赤塚や、後に赤塚プロダクションのメンバーになる長谷邦夫や横山孝雄なんかもいたんです。
──いわゆる“トキワ荘メンバー”は、同時期に数年間一緒に住んでいたと思い込んでいましたが、時系列を整理すると、実はそうでもない……ということですね。ただ、いちファンがそう勘違いしてしまうほどに、密度の濃い日々を送られていたのだろうなと。
鈴木:そうですね。だから僕もね、みんなとすごく仲良くなったんだと思います。
──その関係性が、後の「スタジオ・ゼロ」設立につながるわけですね。