『機動戦士ガンダム』シリーズには、印象深く有名なセリフが多い。なかでも『機動戦士Zガンダム』でクワトロ・バジーナが発する、第13話の「これが若さか」、第34話の「サボテンが花をつけている」というセリフは、シリーズ屈指の“迷言”として有名だ。今回はこの二つのセリフについて、そこから見える心情や人間模様について考えを巡らせてみた。
■酸いも甘いも知った大人に無防備な若さは眩しすぎる
「これが若さか……」は、発せられた状況もセットで有名だろう。
シャア・アズナブルであることを隠すのは卑怯だといって、クワトロを責める17歳のカミーユ・ビダン。怒ったカミーユから殴られたクワトロは、涙をこぼしながら頭のなかでこの言葉を呟いた。
シャアほどの傑物ならば、スペースノイドの代表として人類を導けるはず。それをしないのは、カミーユにとっては責任を放棄した卑怯な行為でしかないのだろう。
たしかに、その気持ちも分からないでもない。しかし組織を率いるのに求められるのは能力や実績だけではなく、むしろ組織内外に味方を作る政治的手腕のほうが大事だったりする。時には汚い駆け引きや腹の探り合いも必要だ。そしてそれを続けるのに、いかに精神が削り取られることか……。
頭の良いカミーユは、きっとそれも理解したうえでクワトロを責めていると思う。しかし実際にすべてを体験してきたクワトロとカミーユとでは、理解の重みが違う。年齢だけでなく経験値としても、カミーユは若い。だからこそ持てる熱さ、純粋さ、バイタリティ。それは若さゆえの特権であり、大人にとっては時に眩しすぎるものだ。
■早熟を余儀なくされたシャアだからこそ
思えばクワトロはシャアとして登場したときから、とても20歳とは思えない老練さを見せていた。
『ガンダム』の第1話、ホワイトベース追跡中に2機のザクと部下を失ったシャアは、「認めたくないものだな。自分自身の、若さゆえの過ちというものを」と口に出す。復讐を果たすために功績を焦って失敗した己の若さを、苦々しく噛みしめているようだ。
またガルマ・ザビを謀殺した後の第12話でも、“なぜガルマは死んだのか”という国葬の演説に「坊やだからさ」とこぼした。友人を信じて死んだガルマの甘さや若さを皮肉るとともに、だから殺されても仕方ないと自分自身に言い聞かせているようにも感じられる。
早くに両親を亡くし、ザビ家への復讐を誓ったシャアにとって、若さとは原動力であると同時に歯がゆいものでもあったろう。もともと聡明で早熟だったにしても、それに拍車をかけた背景には、”復讐を果たすため早く大人にならなければ”という焦りがあったように思う。
そうして27歳の大人になったクワトロが、かつては自分も持っていて、でも疎んでいた若さを真っすぐにぶつけられたのだ。これはたまらない。第50話で「新しい時代を作るのは老人ではない」という言葉が出てきたのも、ここで若さにあてられた影響かもしれない。