『機動戦士ガンダム』が初めて放送されたのは昭和54年(1979年)。そこから平成、令和へと時代は移り変わり、それに伴ってジェンダーの捉え方も変化してきた。いまや“男とは”、“女とは”という固定的な概念を語ることはタブー視される風潮にある。
とはいえ、やはりガンダムは“男の世界”というイメージが強く、ガンダムをたしなむ女性の数は男性と比べるとまだ少ない。また、必ずしも全員がそうではないものの、男性ファンがおもにモビルスーツのデザインや機体性能、戦闘シーンなどに魅かれやすいのに対して、女性ファンはキャラクターの人間性や心情描写、関係性に重きを置いていることが多い傾向にある。こういった男女間での趣向の違いは、どうしても表れてくるものだ。
それではそんな女性の目には、ガンダム登場人物の二大巨頭であり永遠のライバル、アムロ・レイとシャア・アズナブルは、それぞれどう映っているのか。また、なにかと比較されることの多い二人ではあるが、現実的な目線で見たとき、どちらのほうが魅力的なのか。
あくまで主観の域は出ないが、いち女性ガンダムファンとして語り尽くしたいと思う。
■不器用な天才か、万能の秀才か
アムロとシャアを比較するうえでもっともキャッチーな言葉を当てはめるとしたら、“天才と秀才”という表現になると思う。
初見でガンダムを操縦して戦果を上げ、その後いち早く“ニュータイプ”として覚醒したアムロは、パイロットとしてはまさしくセンスの塊だ。一方のシャアも士官学校を実質トップの成績で卒業し、一年戦争では目覚ましい活躍をし、20歳の若さで少佐にまでのぼり詰めている。しかしそんな優秀なシャアでさえ、ニュータイプ覚醒後のアムロにはまったく歯が立たない。自他ともに認めるライバルではあっても、このあたりに天才と秀才との差が表れているだろう。
ただしパイロットとしての才能以外では、シャアのほうが優れている点は多い。ガルマ・ザビに近づき信頼を得るコミュニケーション能力の高さ、軍隊で出世する立ち回りのうまさ、指揮官としてのリーダーシップとカリスマ性。まさにすべてを兼ね備えた万能型の人間だ。
アムロはというと、典型的なオタクタイプであろう。メカのことなら誰にも引けは取らないが、気持ちの整理や人間関係は苦手だ。才能をひけらかして反感を買ったり、すぐ被害的に捉えて拗ねたり逃げたり……。そのせいで、初期は周囲との摩擦が絶えず生じていた。「そりゃあ民間人で15歳の少年がいきなり戦場の最前線に駆り出されたらこうなるだろう」とは思うが、もし同じクラスにアムロがいたら、たとえ天才だったとしても友達にはなれないかもしれない。
■実は将来性抜群だったアムロ
そんなアムロにも、物語を通して徐々に変化が表れる。ランバ・ラルという良き目標を見つけたこと、その目標を超えたと同時に失ったこと、たくさんの死、ララァ・スンと対峙することで他者と深くつながる体験をしたこと、そして、そんな彼女を自らの手で撃墜したこと……たくさんの人とのかかわりのなかで、不器用な少年は英雄になり、やがて人類の可能性を信じることのできる青年へと成長した。
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』では、勝手な行動をしたハサウェイ・ノアをブライトがビンタしたとき、「男の子はこれくらいのほうがいい」とアムロが言うシーンがある。その昔、同じ相手にビンタされて「親父にもぶたれたことないのに!」と逆ギレした少年が、今度は大人の立場からハサウェイを擁護している。それに対して「茶化すな」と返すブライト。アムロの昔を知っている人なら、なんとなく心が温まるシーンではないだろうか。
そう考えると、初期のダダっ子ぶりは経験不足から来る“思春期の黒歴史”ということでカタがつけられそうだ。カミーユ・ビダンのように潰れてしまうこともあり得たのに、アムロはそれを乗り越えて精神的に成熟した大人になった。ここいらで、「若いころはちょっとアレだけど、今のアムロは結構アリなんじゃない?」という気持ちが出てくる。
シャアのことになるとムキになって否定したり、そのシャアと取っ組み合いのケンカをしたりするあたり、まだまだ子どもっぽさが抜けないところもあるが、そのあたりはご愛嬌といったところか。あまりに幼稚だと困るが、男性には少しくらい少年らしさが残っているほうが良いと感じる女性は多いはずだ。それこそ、「男の子はこれくらいのほうがいい」のだ。