谷川流のライトノベル『涼宮ハルヒの憂鬱』が今年、イメージを刷新した幻想的な表紙デザインで角川文庫から新たに出版された。
2006年に全14話でテレビアニメ化され、2009年に第2期が全28話で制作。さらに2010年に劇場版アニメ『涼宮ハルヒの消失』が公開され大きなブームとなった。いちアニメ作品としての枠を超えた社会現象ともなったハルヒは、果たしてSF作品としては、どう位置付けられるのか。文芸評論家の藤田氏に話を聞いた。
※ ※ ※ ※
――藤田さんの「ハルヒ」遍歴を教えてください。
藤田 当時からアニメを観て、原作小説も読んでました。原作の谷川流さんは、おそらく70年、80年代辺りのSF小説や新本格、伝奇小説などから非常に強い影響を受けた人で、そこでやっていたようなことを現代小説の環境でやるために、ライトノベルのフォーマットを使っているように見えました。
──実際に当時、筒井康隆さんが「ハルヒ」にリアクションを取っていましたね。
藤田 筒井さんも「ハルヒ」からものすごく影響を受けて、自身もライトノベルを書いて、いとうのいぢさんに表紙を描いてもらったり、あるいは「ハルヒ」の推薦文を書いたりして、かなり盛り立てたんですよね。筒井さんは「かなりよくできたSFでありメタフィクションである」とおっしゃっています。かつてのSFとの違いは、やはりメタフィクション的意識でしょう。ハルヒが世の中をつまらないと思うと世界の法則が変わるという設定がありますが、ハルヒに「このエピソードはSFじゃなくてミステリーだと思わせてしまおう」といったようにジャンルをスライドさせていく話があって、そのようなメタ的なポジションを取る点がそれまでのSFとは大きく違うところだと思います。
これは斎藤環さんの説なんですが、谷川流さんは阪神淡路大震災で被災しているんです。もともとライトノベルが特に好きというわけではなかったそうですが、ある種、被災によるリアリティの変化みたいな経験をどうにかして表現するために本作を書いている節が見受けられると。僕の言葉で言うと破壊的な非日常を経験した人が、フィクションにおいて非日常を楽しむ側面のあるSFやジュブナイルに対して、もう1回アプローチをしたらどうなるのかという作品に「ハルヒ」は見えます。
例えば70・80年代の角川映画って台風がきて非日常が楽しいとか、戦国時代に自衛隊がタイムスリップしたとか、異常なシチュエーションが面白い、というものでしたが、谷川さんはそういった「異常な経験」をリアルに体感しているわけです。そのねじれみたいなものを、谷川さん自身が本気でどうにかするためにこそ「ハルヒ」を書いてるから、その気迫みたいなものが籠もっているんだろうというのがひとつ。そしてアニメ化のタイミングがよかった、という点がヒットの要因なのではないかと。
──「ハルヒ」以前は、京アニが「AIR」「CLANNAD」のような泣きゲーのアニメ化路線から、「けいおん!」などの日常系アニメを志向するようになる過渡期の作品のように思います。
藤田 「ハルヒ」は世のトレンドが泣きゲー、セカイ系的なものから空気系、日常系的な路線へと移行する時期の作品で、これは同時に大きい物語、背景を持つ作品がなくなる時期でもあるんです。地球が割れるとか日本が沈むとか人類が進化するとか、そういう背景が「ハルヒ」でプツッと途切れてしまう。壮大な物語がなくなり、楽しく戯れていればいいというモードにチェンジする、その時期の作品です。
角川映画の話につなげると、角川は70年代に「野生の証明」のようにマッチョな映画や「復活の日」という人類滅亡を描くような大規模なSFを公開するんですが興行的には失敗して、その後、低予算な割にヒットするアイドル映画路線に進んでいきます。それはちょうど、派手なアニメが流行ったあとに「ハルヒ」がヒットし、アイドル的なものが流行るというアニメの状況と似た部分があります。やはり「ハルヒ」も角川作品ですから、角川映画的な思想を受け継いでいるんですね。それまで大手配給会社がやっていたのとは全然違うメディアで宣伝をして収益を上げてきた角川映画同様、「ハルヒ」もニコニコ動画のような動画サイトを活用したり、キャラを重視したりと、ネットで話題になりやすくなるようにメディアミックスしていました。そういったムーブメントを起こす手法は、やっぱり角川映画の子だと思いますね。