■男を“産業スパイ”にした真の理由とは…『空気の底』シリーズより『カメレオン』

 手塚治虫さんといえばその功績から“マンガの神様”と称されている人物だが、連作短編シリーズ『空気の底』に収録された『カメレオン』には、とある目的から暗躍する“怖い女”が登場する。

 変わり身の早さから「カメレオン」の異名を持つ主人公・月間三千男は、とある女に依頼され、産業スパイとして新薬についての秘密書類を盗み出す。

 女とともに孤島へと赴き、秘密裏に新薬を開発する月間たちだったが、とある夜、女に睡眠薬を盛られ、島に置き去りにされてしまう。

 唯一残されたタンクには新薬を混ぜた水が残されており、それを飲んだ月間は副作用から激しい飢餓状態に襲われ、島中のあらゆるものを貪り食らうように……。

 そんな月間の元にヘリコプターがやってくるのだが、そこに乗っていたのは月間を騙した女と、謎の男だった。

 実は今回の依頼そのものが月間への罠だったのだ。かつて月間が学生時代に裏切り、代わりに逮捕されてしまった青年の父親こそ、ヘリで現れた男だった。そして、女はその青年の姉で、家族の人生を狂わせた月間に素性を隠したまま近付いたのである。

 すべては復讐のために作り上げられたシナリオであり、彼女は月間に新薬の情報を盗ませ、最終的にはそれを利用して月間自身を“実験体”にすることが目的だったのだ。

 己の身一つで憎き相手を誘い、おぞましい副作用を持つ薬を使って苦しめるというそのやり口から、彼女が抱いていた激しい憎悪がまざまざと伝わってくる。飢餓のせいでやせ細った月間の姿は、まさにタイトルにもある「カメレオン」のそれで、その醜悪な姿からは女が心に隠してきた執念を感じざるをえない。

 

 漫画界の巨匠たちが描いた女性は、恨みや執念、狂気によって瞬時に変貌し、優しさや美しさの裏に隠された素顔で我々読者を恐怖のどん底に突き落とす。一方で、そこに描かれたストーリーの深さやサスペンス性に強く惹きつけられてしまうのは、巨匠たちの高い手腕のなせる業だろう。

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