手塚治虫氏の『ブラック・ジャック』の主人公であるブラック・ジャック(以下BJ)は、言わずと知れた天才外科医だ。しかしいかにすぐれた腕を持つとはいえ、彼もすべての手術を成功させてきたわけではなく、ときには患者を救えなかったことも……。
しかしあらためて読み返してみると、むしろそんな“救えなかった命”のエピソードにこそ、特別なメッセージが込められているように思えてならない。以下では、そのなかから3つを取り上げ、それぞれの味わい深さについて振り返っていこう。
※なお記事内に出てくる巻数は、すべて秋田文庫版のものを指す。
■本間先生の名言がグサグサ刺さる「ときには真珠のように」
1巻に収録されている「ときには真珠のように」は、BJの命の恩人・本間丈太郎先生の有名なセリフが出てくるエピソードだ。
ある日、BJは小包で“石の棒に入ったメス”を受け取り、その送り主が本間先生だと知るや彼のもとへ向かった。老衰で寝たきりになっている本間先生は、そのメスについて驚きのエピソードを打ち明ける。
実は先生は幼いBJを死の淵から救った手術のとき、メスを肝臓の下に置いたまま閉腹してしまうという、とんでもないミスを犯してしまっていた。放っておけば内臓に突き刺さり大量出血することもあり得たが、本間先生は世間体を気にして結局そのままBJを退院させてしまう。それから7年後、どうにか理由をつけてメスを取り出すための手術をした彼は、衝撃を受けることに……。
BJの身体のなかにあったメスは、なんとカルシウムの鞘で包まれていた。どういうわけか身体のなかでしみ出したカルシウムが鋭い刃を包み込み、BJの命を守っていたというのだ。まさに“生命の不思議”というべきこの出来事をきっかけに、本間先生は自然界の偉大さを痛感するようになる。
その打ち明け話の直後、本間先生は危篤状態となり、BJが完全な手術をしたにもかかわらず命を落としてしまった。さすがのBJも天命には逆らえなかったのだ。
意識を失う前の本間先生が口にした「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて おこがましいとは思わんかね……」という言葉がすべてを物語っている。何度読んでも、ラストのコマにたどり着くたびに胸が詰まってしまう名エピソードだ。
■医学の限界を突きつけられる「本間血種」
13巻収録の「本間血腫」でBJは、本間先生が発見した疾患「本間血腫」のオペを頼まれる。心臓の左心室に血のかたまりができ、いくらとっても再発してしまうという原因不明の病だ。
本間先生はかつてこの病の治療法を見つけることができず、その結果、“生体実験をして患者を殺した”と叩かれ引退にまで追い込まれてしまった。BJは彼から“ナゾがはっきりするまで手術をしてはいけない”と忠告されていたものの、恩師の仇討ちのような気持ちでオペの話を引き受けることに。
この病気を治すため、BJは患者の心臓を自身が用意した人工心臓に取り替えようとする。しかしいざ手術を始めてみると、なんと患者はすでに人工心臓の持ち主だった。はっきりとしたことはわからないが、極秘で作られた試用のものを移植されていたようなのである。この事実が指し示すのは――そう、本間血腫は人工心臓の故障によって起きる病気だったということだ。
結局、BJはどうすることもできず手術を中止。どんなに精巧な人工心臓も完全ではないと思い知り、医学の限界を突きつけられた彼は「本間先生………私はおろかでした」と打ちひしがれる。ここでまた「ときには真珠のように」のあの名台詞を登場させているのはズルい演出としか言いようがない。